エフタル
4世紀後半、イランに侵入した遊牧民国家。西アジア一帯とインドに侵入した。6世紀後半にササン朝ペルシアと突厥に挟撃され滅亡した。
イラン系遊牧国家
4世紀の後半頃、ヒンドゥークシュ山脈の北麓に起こった遊牧民族で、人種的にはイラン系らしいが、王族はトルコ系とも言われる。次第に勢力を伸ばしイランのササン朝ペルシア領内に侵攻し、圧迫した。484年にはササン朝ペルシア軍を破り、国王ペーローズを戦死させた。エフタルはもとは現在のアフガニスタン東部のクンドゥース地方にいたが、5世紀の末に急速にバクトリアに進出し、ササン朝ペルシアを脅かすようになった。ササン朝のペーローズ1世は481年にエフタルに宣戦布告をし、バクトリアに出兵した。ところがアクシュンワル王に率いるエフタル軍によって皇帝自ら捕虜になるというササン朝始まって以来の敗北を喫した。ペーローズは皇太子カワードを人質としペルシア銀貨で貢納金を支払って釈放され、都クテシフォンに帰った。
Episode エフタルの「落とし穴作戦」
484年、貢納金を払い終わり皇太子を釈放してもらうと、ペーローズ1世は側近の誰もが止めるのを振り切り、10万人の大動員をかけてエフタル再征を行った。ペーローズはインドから動員した象部隊に国境の塔を少しずつ東方にずらし、つまりエフタル寄りに移動させて講和条約違反ではないと見せかけるという姑息な手段を取ったという。(引用)だが、この労力のかかる工夫は功を奏さなかったようで、エフタル族は講和条約違反を理由に宣戦布告してきた。当たり前である。ペーローズ1世と帝国軍はなおも進撃を続けたものの、イスラーム期のアラビア語資料(タバリー)によれば、バルフ近郊(またはヘラート近郊)でエフタル軍の「落とし穴作戦」に嵌まった。本当だとしたら、エフタル軍もまた、恐ろしく古典的な作戦を採用したようである。10万人を一度に落とす落とし穴がどんなものか不明だが、この落とし穴に引っかかって、ペーローズ1世自身が「30人の息子とともに」玉砕した。鳳輦に供奉していた娘のペーローズ・ドゥフトとゾロアスター教神官たちは、生きの虜囚の辱めを受け、前者はエフタル王の妻とされた。この敗戦は、エーラーン帝国(ペルシア帝国のことを当時のイラン人はこういった)の中枢が一挙に覆滅されてしまうという前代未聞の一大カタストロフィーであった。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.2013-215>
グプタ朝を圧迫
さらに5~6世紀に、トルキスタンから西北インド(パンジャーブ地方)にかけての一帯に進出、中央アジアとインドを結ぶ交易路を支配して、中国とも交易を行った。中国の史料には嚈噠(えんたつ)とか、白匈奴として現れる。北インドではグプタ朝を圧迫し、仏教を迫害した。グプタ朝はエフタルの侵攻を受けたことによって次第に衰え、550年頃滅亡した。ササン朝・突厥に挟撃され滅ぶ
6世紀の中頃、東方のモンゴル高原から勢力を伸ばし中央アジアに進出してきたトルコ系の突厥と、西方のササン朝ペルシアのホスロー1世によって挟撃され、滅亡した(559年ごろ。563~567年頃とする説もある)。ホスロー1世、突厥と協力 ササン朝ペルシアにとってエフタルの軍事力は依然として脅威だった。そこでホスロー1世は、対ビザンチン帝国戦役が一段落した557年、折から北方で強大化していた突厥の可汗、室点蜜と同盟を結び、エフタル挟撃を約した。そしておそらくは有力氏族カーレーン家の出身者が指揮する東方軍管区の軍と、ミフラーン家の出身者が指揮する北方軍管区の軍を動員して、560年のブハーラーの戦いでエフタル軍を徹底的に撃破した。ここに、484年のペーローズ1世戦死の復仇は果たされたのである。その後エフタルは567年までに完全に分解して、中央アジアを離れて四散した。…………なおこの後、アム・ダリヤ川を国境として隣接することになったエーラーン帝国(ササン朝ペルシア帝国の自称)と突厥は、親善の名目で、室点蜜の娘とホスロー1世との政略結婚を図った。<青木健『前掲書』 p.248>