グプタ朝
4~6世紀、インドを統一支配した王朝。都はパータリプトラ。インド独自のグプタ様式の文化が発達し、仏教が最も栄えた一方、ヒンドゥー教も民衆に浸透した。
4~6世紀 グプタ朝の統治範囲
その後、4世紀末~5世紀はじめのチャンドラグプタ2世(在位376年~414年)の時には、かつてのアショーカ王の支配領域と同じ広さを支配し、全盛期を迎えた。5世紀後半から西北部をエフタルに侵され、6世紀にはビハールとベンガル北部だけを支配するのみとなって、その中頃に滅亡した。
封建的支配による統治
グプタ朝の統治は、マウリヤ朝以来、ほぼインド全土の統一を復活させたが、その支配はマウリヤ朝とはかなり異なっていた。グプタ朝が直接支配したのは、ガンジス川中流のマダガ地方であった。このいわば直轄領には州がおかれて長官が任命され、宗派いくつかの県に、県はさらに郡に分けられてその下に都市と村落があった。村落ではマウリヤ朝にくらべて村長の役割は大きく、都市においても都市自治体の長、商人ギルドの代表、手工業者の代表からなる議会があり、自治的な要素が強かった。以上の直轄領のほかに広大な帝国領があったが、これらはサンドラグプタ王の遠征によって服属させられたもので、従来の支配者がグプタ朝の封臣として統治にあった。さらにその周辺には貢納を差し出し、娘をグプタ朝の宮廷に入れることで支配権を認められた諸侯がいた。
マウリヤ朝との違い マウリヤ朝が膨大な数の官僚を抱えて中央集権的支配を行ったのに対して、グプタ朝はゆるい封建的な支配を行い、直轄領においても、州の長官や県の役人が中央政府からある程度独立した権限をもたされていた。このグプタ朝の「地方分権的、封建的」な傾向は、バラモンに対しても村落が与えられ、免税特権と同時に徴税権を含む支配権をもつ領主階層を形成したことにも現れている。
金貨の発行と交易 グプタ朝は、古代インドの王朝の中で、最も多くの金貨を発行し、王朝初期においては官吏に対する給与は現金で済されていた。しかし次第に土地賜与の方が重要になっていった。それは外国貿易の不振などの理由で貨幣経済が行きづまり、5世紀後半以降の金貨は純度が落ちたためであった。外国貿易の不振の最大の要因は、4世紀以降のローマ帝国の衰亡であるが、中国における南北朝時代の政治的混乱もあった。もっともこの時代にもカダンバ朝やパッラヴァ朝などデカン以南の王朝によるヒンドゥー文化・仏教文化の輸出の熱意は続いていた。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.60-62>
グプタ様式の文化
安定したグプタ朝の支配のもと、インド文化の黄金時代を迎え、仏教の繁栄とともにバラモン教の復興、ヒンドゥー教の発展が見られた。宮廷ではサンスクリット語が公用語とされ、全盛期であるチャンドラグプタ2世の宮廷ではカーリダーサがサンスクリット語で戯曲『シャクンタラー』を著すなど、サンスクリット文学が盛んになった。美術の面ではアジャンターの仏教美術が開花し、それまでのヘレニズムの影響から脱した、インドの独自性を強く持つようになった。この美術様式をグプタ様式と言っている。この時期はインド文明にとっても大きな転換期であったといえる。Episode 古代インドの帝王の祀り、馬祀祭
古代インドの帝王は、その権威を内外に宣布する一風変わった儀式を行っていた。それは馬祀祭(アシュヴァメーダ)と言われるもので、馬(アシュヴァ)を犠牲(メーダ)として神に捧げる祭祀である。帝王となるものは、まず一頭の優れた馬を選び、祓いの儀式の後に手綱を解いて自由にしてやる。自由になった馬の後に、帝王は軍隊を率いてついていく。馬が他国の領土に入り、その地の王がそれを受け入れれば、帝王に従うことを意味し、侵入者を認めなければ戦いになる。こうして一年間、馬を放浪させ、帝王が勝利のうちに帰還できれば盛大な祭りを行い、その馬を犠牲として神に捧げ、「諸王の王」つまり帝王と認められる。グプタ朝の第二代サンドラグプタ王は、この馬祀祭を成功させ、自ら造らせた碑文や貨幣に「アシュヴァメーダの執行者」と書かせてそれを誇った。<近藤治『インドの歴史』新書東洋史6 講談社現代新書 1977 p.62 ここでは馬詞祭としている>