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ホスロー1世

6世紀、ササン朝ペルシアの繁栄を再建した王。突厥と結んでエフタルを滅ぼし、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と抗争した。また税制改革・軍制改革を行い、帝国を再興させた。この時期に国境であるゾロアスター教の聖典『アヴェスター』が編纂された。

 古代イランの6世紀、一時エフタルに攻撃されて衰えたササン朝ペルシアを再興した王。ホスローの英語表記は Khosro であるが、ペルシア語は Khusraw なので、フスラウ1世とも表記する。531年に即位し、579年まで、48年にわたる治世は、3世紀のシャープール1世時代のササン朝の全盛期と並ぶ繁栄をもたらし、ホスロー1世は「公明正大な」とか「不滅の魂をもつ(アノーシーラワーン)」とおくり名され理想的な君主とされた。都クテシフォンに大王宮を営んだ。

エフタルを滅ぼす

 ササン朝は5世紀後半から、中央アジア方面からのエフタルの侵入に苦しめられ、西方ではビザンツ帝国との抗争が続いていた。ホスロー1世は、557年ごろ、トランスオクシアナに南下してきたトルコ系遊牧民である突厥と同盟を結んでエフタルを挟撃して滅ぼした。彼はエフタル領のオクサス川以南の地を手に入れ、トルコ系の王女を妻として迎えたが、やがて対立するようになり、東方への進出は停止された。

ビザンツ帝国との抗争と和平

 西方ではビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝が地中海制圧に忙殺されている間に圧力をかけ、532年に和議を成立させた。しかしシリアへの侵入を繰り返し、540年にはアンティオキアを占領して多額の賠償金を得、多くの捕虜をクテシフォンに連行した。エフタルを滅ぼした後、561年にユスティニアヌス帝との間に50年の和平条約を結び、西方国境を安定させた。その他、ホスロー1世は治世の末期に、アラビア半島に出兵して現在のイエメンを占領し、ビザンツ帝国とインドを結ぶ貿易路を押さえた。

内政の改革

 当時ササン朝では、ゾロアスター教から分かれたマニ教の影響を受けたマズダク教が流行し、その教義である私有財産の廃止や富の分配などの影響で租税徴収が滞るなど、社会が混乱していた。ホスロー1世は社会の混乱を収束させるためにマズダグ教を厳しく弾圧(ホスローが皇太子だった528年)すると共に、次のような政治・社会改革を行った。
  • 大貴族の力を抑え、中央集権体制を強化。従来の属州を廃止し、帝国を4つの行政区に区分した。
  • 中小貴族の窮乏化・私兵化を防ぐため、武具・馬・衣服と俸給を直接与えてコントロールできるようにした。
  • 税制では毎年の収穫量によって変動させていたのを改めて定額制とし、銀納も認めた。
  • 農業、産業の保護 帝国の経済的基盤を安定させるため、カナートによる灌漑工事を行い、国土を整備して農業生産を高めた。また、隊商宿・道路・橋などの交通網の拡充を図った。

宗教政策

 上述のように、まずマズダク教を厳しく弾圧し、その教祖を処刑した。またマニ教に対しても同様に禁止した。また、西方からのキリスト教の浸透も進んできたが、対立するビザンツ帝国との関係から、それも禁止された。それに対して国教であるゾロアスター教に対しては正統的な宗教として確立すると手厚く保護した。聖典『アヴェスター』はそれまで口承で伝えられてきたが、ホスロー1世のころに筆写され正本が出来上がったと考えられる。また、祭司の身分や資格が定められ、偶像は禁止されて、永遠の火を聖所におく寺院を村々に整備した。

学問の奨励

 529年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝がキリスト教の立場から異教徒を取り締まり、アテネのアカデメイアを閉鎖したため、多数のギリシア人の哲学者や医学者がササン朝に逃れ、ホスロー1世の保護を受けた。
(引用)ホスロー1世は彼らをスサ近くの都市グンデシャープールに集め、原始的なものではあるが大学といえるような高等教育機関をつくった。彼の治世には、そこを中心にギリシア語やサンスクリット語の著作、研究書が多数翻訳された。パフラヴィー語文書の大半もこの時期に書かれたものである。なかには多くの‘アンダルズ’(知恵の書)が含まれており、当時の爛熟した社会の状況を伝えている。ホスロー1世自身も皇太子のために帝王学として‘アンダルズ’を著したという。<『世界の歴史4 オリエント世界の発展』1997 中央公論社 p.314>
 こうしてホスロー1世の時代は、ゾロアスター教を中心としたササン朝の文化が最も栄えただけでなく、ギリシア・ヘレニズムの文化の影響も受けた金属細工やガラス工芸などが生み出され、それらの文化はシルクロード交易を経由して遠く東アジアの日本にまで伝えられることとなった。<宮田律『物語イランの歴史』2002 p.55-58 参照>

ホスロー1世とササン朝のその後

 積極的な対外政策、学問芸術の保護、ゾロアスター教の国教化などすぐれた統治を行ったホスロー1世は、理想的な君主としてイラン人(ペルシア人)の記憶の中に長く生き続けた。
 しかしその死後、宮廷や軍隊では再び党派の抗争が激化し、東ローマ帝国の圧迫も強まり、さらに東の国境ではトルコ人の侵入が繰り返されるようになった。
 ホスロー2世(在位590~628年)の時に一時、威勢を取り戻し、アルメニアの奪回、小アジア、エジプトへの進出などが行われたが、7世紀にアラビアに興ったイスラーム教勢力が及んでくると、642年にニハーヴァントの戦いに敗れ、急速にイラン人のイスラーム化が進むこととなる。

参考 ホスロー1世の評価

 一般にはホスロー1世はササン朝の中興の英主であり、ペーローズ1世のエフタルによる敗死以降、凋落した帝国を、果敢な軍制改革・税制改革によって復興させ、軍事的にはエフタルを滅ぼし、ビザンツ帝国とも互角に戦った、とされる。彼が作り上げた税制は後のイスラーム国家にまで継承されたとも言われている。しかし、ホスロー1世が再建したササン朝ペルシア帝国(彼らの自称ではエーラーン帝国)は、本人の崩御(579年)からわずか63年後の642年のニハーヴァンドの戦いで、地上から跡形もなく消え去っている。ホスロー1世が「不滅の名君」だったとすれば、そのササン朝がわずか63年後に滅亡したという逆説を、どう説明することができるだろうか。
(引用)この逆説を解明するために、従来は「イスラームの宗教的優越性」、あるいはその裏返しとして「イスラーム教徒の狂信性」といった要素が重視されてきた。いわば、エーラーン帝国はたしかに再建されたのだが、その直後に超自然的な災難に見舞われたかのごとく、神意によって押し流されたのである・・・・だが、この解説は、イスラームに対して過剰な説明責任を押しつけていないだろうか? イスラームの精神的な要素は客観化し難く、また、ゾロアスター教とイスラームを比較してどちらが優越しているかという議論はほとんど意味をなさない。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.252-253>
 筆者の青木氏の見解はどうか。青木氏は「ホスロー1世の改革は本当に成功だったのか?」との問いを立てる方が生産的な議論になると指摘する。その解釈は、ホスロー1世の軍制改革は、結果的にはパルティア系大貴族の反乱を次々と誘発してしまい、アルダフシール1世(アルデシール1世)が築いた「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」の基礎を根底から覆していった。また税制改革と並行してササン朝の直轄領で人口の都市集中が進み、貨幣経済は振興した。この都市化がシルクロードを介してもたらされる東西交流を促進し、織物工芸、ガラス工芸、金属工芸と言ったササン朝文化の発展を促したという側面もあるが、その反面ではササン朝の初期以来、帝国経済を支えていた農業を衰退させてしまったことも考えられる。ホスロー1世の改革は、本人の意図とは違った結果を導き出し、ササン朝ペルシア帝国が崩壊する一因となったと考えられる。その立場から見れば、アラブ人イスラーム教徒それ自体が強力であったためにササン朝が打倒されたのではなく、彼らが出現する以前に実質的に解体しつつあったのである。アラブ人イスラーム教徒は危機に瀕した帝国の管財人として巧みに立ち回り、偶然の積み重なりの果てに、エーラーン帝国の遺産をまるごと継承したに過ぎない。<青木健『同上書』 p.253-254>