マズダク教
5世紀末頃のササン朝ペルシアで、マニ教の影響で生まれた新宗教。土地所有の平等、女性の共有(解放)などを説き、一時流行したが、異端として弾圧された。
古代イランの、5世紀末のササン朝ペルシアで、マニ教の影響を強く受けたゾロアスター教の祭司マズダクが創始した宗教。ササン朝の支配のもとで大飢饉がつづき、イラン各地の農民生活は悲惨を極める一方、免税などの特権をもつ貴族や祭司たちは裕福な生活を送っていた。そのような社会的矛盾にたいして、マズダクは不殺生や禁欲と共に、欲望を引き起こす所有権や女性への執着を蔑み、女性を含む土地財産の共有などを主張した。マズダクの教えのなかには菜食主義とともに非暴力も含まれていたが、信者は大貴族の家を襲撃したり、納税を拒否したりしたため、大きな社会不安をもたらした。ササン朝ペルシアの君主もマズダク教弾圧に転じ、528年には皇太子ホスロー(後のホスロー1世)は教祖マズダクを始めとする信者を殺害した。
Episode 史上最初の共産主義者?
(引用)開祖のマズダクは、イラン東北部のホラサーンで生まれ、非暴力、菜食主義、また私有財産の廃止、富の分配などを唱え、農民と貴族の階級闘争を説いたことから史上初の共産主義者ともいわれている。マズダク教が広まるにつれて、租税の徴収が滞ったり、土地の所有権があいまいになるなどの混乱が現れた。マズダク教はイスラーム時代にも生き残っていく。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.54>
女性共有の思想
マズダグの教えは、人は殺したり、肉を食したりしてはいけない、親切や忍耐や同胞愛によってこの世の暗黒に光明を増やすべきであるというものだった。友愛を増し、欲望や嫉妬の原因を減少させるために、マズダグは所有物の共有を求めたが、このなかに女も含んだことで非難された。しかし、女性共有の思想は、ゾロアスター教では男女の精神的平等が教えられていたにもかかわらず、ササン朝の法律では女性はその最も近い男性親族に属するとされていた事に対して疑問を呈したものであり、王の後宮や貴族の囲い者として連れ去っていた娘や姉妹を解放したいという貧者の望みから発したものであった。そこで女性の解放を意味していたと言うことができる。参考 マズダグ教の弾圧
5世紀後半のササン朝ペルシア王ペーローズ(459~484)がエフタルとの戦いで命を落とした後、484年に即位したカワード王は、マズダクの教えに心を動かされた。彼はかつて二年間、エフタルに人質とされ、その半遊牧社会では比較的独立、平等が認められているのを知り、マズダクの提言する社会改革を好意的に見ていた。しかし、貴族と聖職者はこの新しい動きに強く反対し、マズダクの教えは異端の最たるものと非難した。カワード自身は494年に廃位され、弟のザーマースプが即位すると、何とエフタルのもとへ逃げ、彼らの助けを得て復位した。ところがその後カワードはマズダグ支持をやめ、この新しい信仰に執着していた長男のカウスではなく、第三子ホスローを後継者に選んだ。カワードの治世の終わり、皇太子ホスローは王の命を受け、マズダグのために宴会を開き、その席でこの預言者と多くの信奉者を殺戮してしまった。マズダグの運動はこうして実質的に消滅したが、その影響は生き続け、イスラーム教の到来後も生き長らえることとなる。