マニ(マーニー)
3世紀のササン朝ペルシアでマニ教を創始した宗教家。一時は保護されたが、弾圧されて獄死した。
3世紀頃、ササン朝ペルシアの時代にバビロニアで生まれたイラン人の教祖マニ(またはマーニー)が、ゾロアスター教をもとに、キリスト教や仏教の要素も取り入れて折衷した新宗教。マニはシャープール1世には保護されたが、次のバフラーム1世によって処刑された。ゾロアスター教を国教とするササン朝のもとでは、その後もマニ教は厳しく弾圧された。 → マニ教 中国の摩尼教
マニ教の創始 マニは12歳の時、双子と呼ぶ聖霊の訪れを受け、新しい信仰への自覚をもつにいたったという。24歳のとき、ふたたび聖霊の啓示を受け、インドに旅をして仏教なども知ることとなり、新しい宗教マニ教を創始した。それはゾロアスター教の善悪二神の対立を基本とし、種々の神話やキリスト教、仏教の要素などを採り入れた折衷宗教であるが、霊と物質の対立というギリシア的要素も加味され、悪に属するとされた物質世界の未来をきわめて悲観的に考えた。
シャープール1世の保護 バビロニアに戻ったマニは盛んに伝道活動を行ううち、ササン朝のシャープール1世の弟を改宗させ、その推薦でクテシフォンの王宮に招かれた。その時マニは自ら教義を『シャープーラカーン』と呼び中世ペルシア語の書物にまとめ、王に差し出した。預言者が自ら教義書を書いたのは、史上、マニが最初であったであろう。シャープール1世自身もマニ教に帰依したと言われるが、それを示すはっきりした証拠はない。マニの医学的知識が重用されたことは確かで、遠征にしばしば同行した。
積極的な伝道 世界に教えを広めることを自らの使命と考えたマニは、生前すでにローマ、エジプトや中央アジアなどの異民族のもとへ伝道団をおくり、聖典の翻訳も進めた。この伝道は成功したが、同じように伝道を行っていたキリスト教教団と各地で対決することとなった。
弾圧と獄死 ゾロアスター教の祭司団は、マニの成功に危機感を強めた。その祭司長で王宮でも隠然たる力を持っていたキルデールは、マニの排除を画策したが、シャープール1世の生存中は成功しなかった。272年、シャープール1世が亡くなるとマニは伝道に専念しようと王宮を辞したが、キルデールは王位継承にも介入して、意のままになるワフラーム1世を立てて、マニの行動にさまざまな弾圧を加えた。マニはワフラーム1世に迫害の中止を訴えたが、王は「お前は歓迎されていない」と冷たい言葉を発し、訴えを取り上げないばかりか彼を捕らえて投獄した。マニは26日後の277年2月14日に獄死した。その時マニは重い鎖をつけられたとか、死刑になって体を二つに切り離されたという説もある。しかしトゥルファンから出土したパルティア後の文書に、彼はかなり自由に信者と面会したと伝えられており、刑死したとは考えられない。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.30 同書では、マーニー、シャープフル1世、サーサーン朝と表記している>
マニの生涯
マニ(マーニーとも表記される)はササン朝ペルシアの時代のイラン人。216年4月14日、パルティアの王族(つまりアルサケス家)につながる父パテーグの子としてバビロニアに生まれた。父はキリスト教グノーシス派の洗礼者教団に加わっていたいたので、マニもそのような教養のなかに育った。グノーシス派とはキリスト教の異端の一つで、神秘主義と結びつき、霊的世界と現実世界を厳しく分ける二元論を特徴としている。マニ教の創始 マニは12歳の時、双子と呼ぶ聖霊の訪れを受け、新しい信仰への自覚をもつにいたったという。24歳のとき、ふたたび聖霊の啓示を受け、インドに旅をして仏教なども知ることとなり、新しい宗教マニ教を創始した。それはゾロアスター教の善悪二神の対立を基本とし、種々の神話やキリスト教、仏教の要素などを採り入れた折衷宗教であるが、霊と物質の対立というギリシア的要素も加味され、悪に属するとされた物質世界の未来をきわめて悲観的に考えた。
シャープール1世の保護 バビロニアに戻ったマニは盛んに伝道活動を行ううち、ササン朝のシャープール1世の弟を改宗させ、その推薦でクテシフォンの王宮に招かれた。その時マニは自ら教義を『シャープーラカーン』と呼び中世ペルシア語の書物にまとめ、王に差し出した。預言者が自ら教義書を書いたのは、史上、マニが最初であったであろう。シャープール1世自身もマニ教に帰依したと言われるが、それを示すはっきりした証拠はない。マニの医学的知識が重用されたことは確かで、遠征にしばしば同行した。
積極的な伝道 世界に教えを広めることを自らの使命と考えたマニは、生前すでにローマ、エジプトや中央アジアなどの異民族のもとへ伝道団をおくり、聖典の翻訳も進めた。この伝道は成功したが、同じように伝道を行っていたキリスト教教団と各地で対決することとなった。
弾圧と獄死 ゾロアスター教の祭司団は、マニの成功に危機感を強めた。その祭司長で王宮でも隠然たる力を持っていたキルデールは、マニの排除を画策したが、シャープール1世の生存中は成功しなかった。272年、シャープール1世が亡くなるとマニは伝道に専念しようと王宮を辞したが、キルデールは王位継承にも介入して、意のままになるワフラーム1世を立てて、マニの行動にさまざまな弾圧を加えた。マニはワフラーム1世に迫害の中止を訴えたが、王は「お前は歓迎されていない」と冷たい言葉を発し、訴えを取り上げないばかりか彼を捕らえて投獄した。マニは26日後の277年2月14日に獄死した。その時マニは重い鎖をつけられたとか、死刑になって体を二つに切り離されたという説もある。しかしトゥルファンから出土したパルティア後の文書に、彼はかなり自由に信者と面会したと伝えられており、刑死したとは考えられない。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.30 同書では、マーニー、シャープフル1世、サーサーン朝と表記している>
マニ教
3世紀のササン朝ペルシアでマニが創始した、ゾロアスター教と仏教、キリスト教を折衷した宗教。地中海世界、中国などにも伝えられ、影響を与えた。
ヘレニズムの環境
マニ教はゾロアスター教・キリスト教・仏教を折衷し、初めから世界宗教として成立した。そのような新しい宗教が成立した3世紀の世界は、ヘレニズム的な環境が色濃く残っている時代であった。マニ教の直接的な母体となったグノーシス派はプラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学の思弁法とユダヤ教の世界観が結びついたものであった。キリスト教も同様な背景をもっており、当時のこの二つの宗教は同等の重みで存在していた。ヘレニズム的環境とは、多様な文化が共存し、他の人々の信仰や生活慣習には介入しないという、寛容な環境であり、そのような環境でマニ教のような折衷宗教が現れることは不思議ではない。
(引用)歴史的にはこのような寛容さは普通のことであった。政治的権力の変遷が、民族構成の変化を意味することはきわめて多かったにもかかわらず、異なる民族が共存するのは当然だった。支配者と民衆のあいだで宗教が異なることもしばしばあったが、支配者が自らの宗教を押しつけることはほとんどなかった。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.24>世界史を学ぶなかで、このようは「ヘレニズム的環境」が普通だったことを知ることは、重要なことではないでしょうか。以下、山本女史の書物をもとにまとめます。( )のなかは引用者のつぶやき。
マニ教の教義
マニ教の教義とその宇宙観は、基本的にはゾロアスター教の二元論をもとにしているが、グノーシス主義(ヘレニズム世界で流行した神秘思想。プラトンやピタゴラスの哲学をもとに「隠された真の知識」を意味するグノーシスを知ることで救済されると説く)の影響を受け、宇宙を霊的な光と物質的な闇の対立とする。そして物質や肉体を嫌悪するという現世否定は仏教の影響と考えられる。さらに壮大な宇宙草創物語が語られ、光と闇の闘争は最終的にイエスが登場して救済されるというキリスト教に結びつく。と言う具合で、とても短文ではまとめきれない教義を展開しているが、要するにゾロアスター教・グノーシス主義・仏教・キリスト教を折衷した宗教であるということを知っておけば良い。(現代の新興宗教で言えば、「○○の科学」と言ったところか。)マニ教の戒律
徹底的に現世を否定するマニ教徒は、現世ではどのように生きていけば良いか。それはマニの示す戒律を守ることとされた。マニは「人間には自分のなかの救われるべき本質を自ら救わなければならないという使命がある」として、不殺生・肉食を慎む・酒を控える・性的な禁欲・無所有の五戒を勧めた。具体的には、五感を抑制するため白い衣服を身につけ、一日一食の菜食主義、週一度の断食、一日4~7回の祈祷、信仰告白、洗礼(水は使わない)などを守った。マニ教最大の祭りはベーマ祭といい、年末(春分の頃)行われるマニの死を記念して行われる。ベーマとはマニが降臨すると信じられた玉座のこと。信徒は平信徒(聴聞者)と「選ばれた者」(アルダワーン)に分かれ、厳格な信徒集団を作っていた。(日本で時々現れる白装束の集団がマニ教徒であるかどうかは、知りません。)マニ教団
マニはササン朝のシャープール1世の王宮に迎えられ、保護されたが、王自身はゾロアスター教であったので、マニ教が公認されたわけではない。マニ教の急速な発展を脅威に感じたゾロアスター教祭司団によって捕らえられ、マニは獄死した。マニは生前に自ら聖典を書き、弟子も多かったので、その死後、バビロニアを中心にマニ教団が成立した。しかしササン朝の中心部では布教が禁止されたため、彼らの布教活動は周辺に向かった。特に西方のローマ帝国領内のシリアやエジプトでは盛んに布教が行われ、北アフリカのカルタゴまで及んだ。マニ教とローマ帝国
ちょうどそのころ、キリスト教もローマ領内で布教活動が行われていたので、当初、ローマ帝国はこの両宗教を同じような危険な宗教と捉えて、たびたび弾圧した。ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、キリスト教徒ともにマニ教も弾圧、297年、エジプトに「反マニ教宣言書」を送り、焚書や信徒、教師の死刑、財産没収、強制労働を命じている。ローマ帝国がこれだけ厳しく弾圧しようとしたのは、それだけマニ教の布教が広がっていたことを示している。その痕跡は、マニ教教典はギリシア語に翻訳されており、現在もエジプトのキリスト教徒コプト教会にはコプト語のマニ教聖典が伝えられているところにもみられる。Episode マニ教がローマ帝国の国教に?
(引用)当時のマニ教の隆盛ぶりは、ローマ帝国がキリスト教を国教としなかったとしたら、マニ教が国教となっていただろうといわれるほどであった。ローマ帝国でキリスト教が公認され国教となってからは、マニ教は異端の一つとしてあつかわれ、排斥された。しかしマニ教的な思考法、その魅惑的な神話群は人々を魅了しつづけ、キリスト教化されたヨーロッパにおいてもその影響を受けた二元論は連綿と生き続けた。<山本由美子『同上』 p.34>(マニ教がローマの国教になるかもしれなかった、なってもおかしくなかった、という指摘は斬新な響きがあります。)
マニ教の伝播
ゾロアスター教はイラン人以外の民族にはひろがらなかったが、マニ教はキリスト教や仏教の要素も取り入れた世界宗教的な教義を持っていたので、他の民族にも受容しやすかった。キリスト教への影響 西では西ローマ時代のカルタゴの教父アウグスティヌスも一時その信者となったことは有名である。アウグスティヌスは若い頃にマニ教の信者となったことを、その主著『告白』で述べており、そこからキリスト教の信仰に転じたことから「神の国」の理念を作り上げた。中世のキリスト教でもマニ教の影響は強く残っており、カタリ派などの異端も生み出した。マニ教と同じく5~6世紀のササン朝ペルシアにおいて、ゾロアスター教から分かれた新興宗教にマズダク教がある。
ソグド人による伝播 イラン系民族であるソグド人は、サマルカンドなどを拠点に中央アジアのオアシス地帯で早くから交易に従事していたが、そのソグド商人の商業活動によってマニ教は広く東西に伝えられ、イラン人以外にも広がった。
ウイグルとマニ教 8世紀半ば以降に中央アジアで有力となったウイグル人は、マニ教を国教化して尊崇した世界史上唯一の国である。ウイグル第三代の牟羽(ぼうう)可汗は安史の乱で唐を支援して洛陽に入ったときマニ教僧侶と遭遇し、彼らを連れ帰ったことから始まるという。それを機にウイグル内部にマニ教徒であるソグド人が多数移住し、ウイグルの可汗はマニ教を保護することでソグド人の商業活動を支配下におこうとしたと考えられる。しかしウイグル内には保守派の反発も強く、779年には牟羽可汗がクーデタで殺され、マニ教は一時衰えるが、8世紀の末にはマニ教は復活し、ウイグルの国教となった。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社学術文庫 p.292-296>
中国とマニ教 中国にはソグド商人によってゾロアスター教徒共にマニ教も伝えられていたが、7世紀末の唐の則天武后の時に正式にマニ教の布教が認められ、さらに安史の乱が起きると、援軍として入ったウイグル人は中国でマニ教に接触し、ウイグルのハンがマニ教を信じてマニ教を国教とした。唐代の中国では「摩尼教」と言われようになり、長安の都にはネストリウス派キリスト教の景教、ゾロアスター教の祆教とともに三夷教といわれ、かなりの信徒がいた。
マニ教の衰退
しかし、840年にウイグルがキルギスの侵攻を受けて崩壊し、多くのウイグル人がモンゴリアから離れて、その一部は西域の高昌とその周辺地域に限られることとなった。ウイグルの敗退は、中国各地でも反ウイグルの動きが吹き出し、各地のマニ教寺院も破壊された。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.71>845年の唐の武宗の会昌の廃仏の際に、摩尼教寺院も廃止された。中国の摩尼教は難を逃れた一人のマニ僧によって福建の泉州に伝えられ、一種の秘密結社のようなかたちで存続していた。しかし、摩尼教としてではなく、仏教や道教、ある場合にはキリスト教の一派のように振る舞ったようで、マルコ=ポーロが泉州で遭ったという「キリスト教徒」とはじつはマニ教徒だったといわれている。その後中国ではマニ教は全く姿を消した。
中央アジアではウイグルの勢力が衰えた後も、サマルカンドやトゥルファンなどのオアシス都市で信徒が残っており、彼らが遺した壁画や教典が発見されている。壁画のなかでマニ教徒だとわかるのは、剃髪しておらず白い衣服を身につけているからである。13世紀ごろまでにはマニ教の痕跡はまったくなくなり、イスラーム化の勢いが強かったことを示している。<山本由美子『同上』 p.72>