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貴族共和政(ローマ)

古代の都市国家ローマではエトルリア人の王が追放され、前509年に貴族の合議制による共和政体となった。しかし、貴族の政権独占に対する平民の不満が高まり、前3世紀までに平民を主体としたローマ共和政が成立する。

 都市国家ローマでは建国以来、王政が行われていたが、伝承によれば、紀元前510年に7代目のエトルリア人の王が追放され、翌前509年「民会」から最初の執政官(コンスル)が選出され、貴族共和政が成立したとされている。貴族(パトリキ)とは、都市国家ローマの集住が行われた頃の指導者たち(パドレス)の子孫(パドレスの子どもだからパトリキ)とされる有力者たちで、いわば血統貴族とされる世襲的特権階級であった。

コンスルと元老院

 国家の最高責任者とされる執政官(コンスル)は、定員2名の複数制、任期はわずかに1年と定められて権力の固定化が避けられていたが、選出されるのは貴族(パトリキ)といわれる、特定の家系の上層市民だけであった。また、最高の諮問機関である元老院も貴族のなかから選ばれた終身議員によって構成されていたので、共和政と言っても貴族以外の人びと、つまり平民(プレブス)・無産市民(プロレタリー)らは除外されていたので、寡頭共和政(少数の貴族だけによる共和政)であった。

平民との軋轢

 しかし、ローマが他のラテン人や、エトルリア人などの周辺都市国家と争い、支配領域を守り、拡張していく際には、貴族が騎士となるだけでなく、上層の平民が武器を自弁する重装歩兵となって軍事力の中心となっていた。都市国家市民団の中核としてローマの軍事力を支えていた重装歩兵市民は、次第に貴族の政権独占に不満を持つようになった。また、ローマの支配地が広がるにつれて、新たに土地を得たものとそうで無いものとの経済格差も生まれ、借財に苦しむ平民も現れてきた。

貴族共和政の行き詰まり

 そのような中で前5世紀ごろから、平民の中に貴族との政治的平等と、没落防止を求める要求が強まり、それは身分闘争として展開されていく。貴族側も、平民との妥協の必要が認識されるようになって改革が進められ、当初は認められていなかった貴族と平民の通婚もカヌレイウス法(前445年)で認められ、さらに前367年のリキニウス・セクスティウス法ではコンスルの一人は平民から選ぶこと、貴族の公有地占有の制限などが実現、それ以降、コンスル以外の政務官にも平民が就任することが多くなり、コンスル経験者が元老院議員に選ばれたことから、平民で元老院議員となるものも現れた。また、前287年にはホルテンシウス法で平民会の決議が国法として認められたことによって平民を主体としたローマ共和政が完成した。

新貴族の登場

 しかし、これによって政務官となったり元老院議員となった平民は、それなりの財力のある上層平民に限られていた。従来の貴族(パトリキ)に加えて新たな権力を構成することとなった上層平民を新貴族(ノビレス)という。従来の貴族は血統のみで世襲されたが、新貴族は上級官職につくことでなれる官職貴族であったが、実質的にはその地位は固定化され、貴族と同様の存在となっていった。
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書籍案内

島田誠
『古代ローマの市民社会』
世界史リブレット3
1997 山川出版社