新貴族(ノビレス)
古代ローマで、貴族(パトリキ)に対し、対等な力を持つようになった平民(プレブス)の上層が、前4世紀中ごろから新たな支配層を形成したことをいう。前1世紀の共和政末期までローマの支配層となった。
ローマにおける従来の貴族(パトリキ)に対して、前4世紀中ごろから現れた新貴族をノビレスという。古代ローマで展開された身分闘争の結果、前367年のリキニウス=セクスティウス法で平民からもコンスルの一人が選出されることになって貴族と平民の身分的平等が実現すると、平民の中でもコンスルなどの高い地位に就いた人びとは名誉と富を獲得し、元老院議員にも選出されて名門と認められるようになった。
そのような平民出身で新たに貴族に加わった人びとは、従来の貴族が血統貴族であるのに対して官職貴族であり、当時はノビレスと言われるようになった。ノビレスとは「顕著な」という意味の言葉であったが、後には「高貴な」という意味を持つようになる。彼らは大土地所有者であり、奴隷を使役し、さらにクリエンテス(被保護者の意味)と言われる従者を多数従える有力者としてローマの政治を左右するようになった。カルタゴとのポエニ戦争で二代にわたって活躍したスキピオなどがその例である。 → ローマ共和政
また、コンスルなどの政務官は、ローマでは民会で選挙されるが、今年度のコンスルが来年度のコンスルを公示し、それに対して有権者が民会で賛否の投票を行って決まる、というやり方だった。つまり、実質的にコンスルが次期のコンスルをきめることができたので、特定のプレブス上層の家柄の者によって政権が「たらいまわし」されていた。リキニウス・セクスティウス法によって「パトリキの政権独占は破られ、プレブスに政権が開かれたのであるが、その実質はこうした新たな貴族が生まれたわけであった。この新しい貴族をノビレスという。」<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.57>
前3世紀のポエニ戦争以来、ローマが広大な属州を獲得するようになると、その統治に当たる総督には、元老院議員を務めたこの新貴族(ノビレス)が就任するようになった。彼らは不当な課税などによって属州民を収奪し、ローマの中央政界での選挙資金などに充てた。その手先として徴税や鉱山開発などを代行した徴税請負人には騎士(エクイテス)といわれる新興商人層がなることが多かった。
これがローマ独特の党派である共和政末期の閥族派と平民派がうまれる背景であったのだ。
パトロネジ ローマでは社会の中でより有力なものが、弱い立場のものを庇護する関係が見られ、そのあり方はさまざまではあるが、多くは豊かなものが貧しいもの食糧や金銭を与えたりしてた場合、保護する側を波トロヌス patronus (英語のパトロンの語源)、保護される側をクリエンテス cliens (同じくクライアントの語源)と呼び、そのような関係をクリエンテラ clientela と呼んだ。現代ではこの関係を英語でパトロネジと呼ぶことが多い。<宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』2024 講談社現代新書 p.51-52>
このようにローマは、共和政の名のもとに貴族社会を受容した。現代のような人権思想のなかったローマでは、法律や税制で富を制限して社会の平等化を図る、という観念はなかったようだ。同時に富裕な市民は社会に対する貢献を期待され、公共事業への私費の投入や、食糧不足が生じた際には私費で買った穀物を人々に施与した。ギリシアのアテネ民主政では富裕者の義務として制度化されていたが、ローマでは制度化されることはなかった。しかし通念としては、富裕市民は当然公共の利益に貢献するものと見なされていた。そのような理念は、18~19世紀のヨーロッパにも受け継がれ、イギリスでは貴族のチャリティ参加や皇族の従軍が暗黙の義務となった。フランスでは「ノブレス・オブリージュ noblesse oblige 」ということばが生まれた。ノブレス・オブリージュとは、「貴顕の士は義務を負う」ことであり、現在でも良い意味で使われることが多い。
そのような平民出身で新たに貴族に加わった人びとは、従来の貴族が血統貴族であるのに対して官職貴族であり、当時はノビレスと言われるようになった。ノビレスとは「顕著な」という意味の言葉であったが、後には「高貴な」という意味を持つようになる。彼らは大土地所有者であり、奴隷を使役し、さらにクリエンテス(被保護者の意味)と言われる従者を多数従える有力者としてローマの政治を左右するようになった。カルタゴとのポエニ戦争で二代にわたって活躍したスキピオなどがその例である。 → ローマ共和政
新貴族(ノビレス)出現の事情
リキニウス・セクスティウス法によって貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の政治的平等が実現した、といっても誰でもコンスルになれたわけではなく、ローマの高官は無俸給であってかつ出費が多くなるので、平民の中でもかなりの資産、財産をもつ者に限られていた。彼らは重装歩兵以上の武装が可能なので、騎士と言われることが多く、コンスルに立候補できるのはプレブス上層のものに限られていたのが現実だった。また、コンスルなどの政務官は、ローマでは民会で選挙されるが、今年度のコンスルが来年度のコンスルを公示し、それに対して有権者が民会で賛否の投票を行って決まる、というやり方だった。つまり、実質的にコンスルが次期のコンスルをきめることができたので、特定のプレブス上層の家柄の者によって政権が「たらいまわし」されていた。リキニウス・セクスティウス法によって「パトリキの政権独占は破られ、プレブスに政権が開かれたのであるが、その実質はこうした新たな貴族が生まれたわけであった。この新しい貴族をノビレスという。」<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.57>
前3世紀のポエニ戦争以来、ローマが広大な属州を獲得するようになると、その統治に当たる総督には、元老院議員を務めたこの新貴族(ノビレス)が就任するようになった。彼らは不当な課税などによって属州民を収奪し、ローマの中央政界での選挙資金などに充てた。その手先として徴税や鉱山開発などを代行した徴税請負人には騎士(エクイテス)といわれる新興商人層がなることが多かった。
Episode 300年間で15人だけ
このようなノビレス支配は300年続いた。従来の貴族(パトリキ)は血統によって世襲される閉鎖的な身分であったが、新貴族(ノビレス)は形式的には官職貴族なので誰でもなれるし家柄で固定されることはない。しかし、コンスルなどの高官が無報酬であり、前任者が候補者を指名するという選出法であったため、現実には上層プレブスの家柄の者に限られていた。したがって、前367年に「ノビレス支配」が樹立されると、外から新たにノビレスの仲間入りすることは不可能ではないが非常に困難になる。ゲルツァーという学者の研究では、共和政末期までの300年間に新たにノビレスの仲間入りした人は全部で15人であった。クリエンテーラ(保護関係)
ノビレスの仲間になるのは、親戚関係か有力者のコネがないと不可能だった。そこからノビレスとその周辺には保護関係(クリエンテーラ、恩顧関係とも)や友誼関係(アミキティア)などで結びつき、有力ノビレスの引きによってはじめてコンスルとなり、その仲間になるという関係が強くなった。<弓削達『同上書』 p.58>これがローマ独特の党派である共和政末期の閥族派と平民派がうまれる背景であったのだ。
パトロネジ ローマでは社会の中でより有力なものが、弱い立場のものを庇護する関係が見られ、そのあり方はさまざまではあるが、多くは豊かなものが貧しいもの食糧や金銭を与えたりしてた場合、保護する側を波トロヌス patronus (英語のパトロンの語源)、保護される側をクリエンテス cliens (同じくクライアントの語源)と呼び、そのような関係をクリエンテラ clientela と呼んだ。現代ではこの関係を英語でパトロネジと呼ぶことが多い。<宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』2024 講談社現代新書 p.51-52>
ノブレス・オブリージュ
古代ローマでは、都市国家ローマの段階での身分闘争の結果、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)は法的には平等になった。しかし、平民の中でも何世代にもわたって経済力と政治権力を持つものが現れ、彼らが新貴族(ノビレス)といわれて、政務官や元老院議員となっていった。ノビレス nobiles とは、もともと「広く知られている」という意味であったが、ここから「有名な」「声望がある」、さらに「貴顕の人々」とった意味になった。パトリキ以来の貴族の家門出身者はカエラるやスキピオであるが、平民家系から新貴族となった家門出身者にはグラックス兄弟や、多くの執政官を出したカエキリウス・メテルス家などがある。<宮嵜『前掲書』 p.47>このようにローマは、共和政の名のもとに貴族社会を受容した。現代のような人権思想のなかったローマでは、法律や税制で富を制限して社会の平等化を図る、という観念はなかったようだ。同時に富裕な市民は社会に対する貢献を期待され、公共事業への私費の投入や、食糧不足が生じた際には私費で買った穀物を人々に施与した。ギリシアのアテネ民主政では富裕者の義務として制度化されていたが、ローマでは制度化されることはなかった。しかし通念としては、富裕市民は当然公共の利益に貢献するものと見なされていた。そのような理念は、18~19世紀のヨーロッパにも受け継がれ、イギリスでは貴族のチャリティ参加や皇族の従軍が暗黙の義務となった。フランスでは「ノブレス・オブリージュ noblesse oblige 」ということばが生まれた。ノブレス・オブリージュとは、「貴顕の士は義務を負う」ことであり、現在でも良い意味で使われることが多い。