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民会(ローマ)

古代ローマの都市共和国時代の最高議決機関。選出母体の違い、設立時期の違いなどで幾つかの民会が存在した。重要な民会は兵士の種別で構成される兵員会(ケントゥリア民会)、市民の属する区を単位とする区民会(トリブス民会)、それらより後にできた平民のみから構成する平民会である。

古代ローマの最高議決機関

 ローマローマ共和政においては、貴族出身の終身議員からなる元老院が実権を握り、民会は議論の場ではなく、採決する権限しかなかった。また本来は元老院の承認がなければその採決も国法とされなかった。しかし、王政を否定して以来、都市国家ローマの主権者であるとされた市民の政治参加の場として重要な存在であった。
 伝承によれば王政の段階から、都市構成員が民会を設けていた。前509年に王を追放して貴族共和政を樹立するころには、民会には選出母体の違いから(1)貴族会(クリア民会)、(2)兵員会(ケントゥリア民会)、(3)区民会(トリブス民会)の三つが存在した。民会といっても近代の議会とは異なり、議論の場ではなく、採決するだけの機関であった。国制の重要課題は貴族から選ばれた終身議員からなる元老院で議論されていた。民会で選出されるコンスル(執政官)などの高官と元老院議員は貴族(パトリキ)に独占されていたので、次第に平民(プレブス)の不満が高まり、前494年の聖山事件を景気に平民だけから選ばれる民会として(4)平民会が設置され、護民官を選出することになった。
 以上、ローマの民会の4つの形態の違いをまとめると次のようになる。

(1)貴族会(クリア会)

 クリアとは氏族制的社会組織で、ローマには30のクリアがあり、クリアを単位として構成されたのがクリア会。貴族会(コミティア=クリアタ)の主な任務は任命された政務官の批准と神官の任命、養子縁組や遺言状の保証。次第に兵員会によって権限は制限されていった。王政期には機能していたが、共和政期には市民のクリア所属は早くに忘却され、クリア民会は形骸化した。

(2)兵員会(ケントゥリア会)

 兵員会(コミティア=ケントゥリアタ) リウィウス(前1世紀末の歴史家)によれば都市国家のローマの王政時代、セルウィウス=トゥリウス(6代目の王)によって市民総会として設けられたというが、実質的には前450年頃の設置か。市民権を持つ成年男性のみが参加する「兵員会(ケントゥリア会議)」は武装した市民の集会であり、外国人・奴隷・兵役と課税を負担できない極貧層(プロレタリア)は参加できなかった。市民は財産に応じた騎兵、重装歩兵、軽装歩兵などの兵役義務の違いにより、それぞれ「百人組」(ケントゥリア)を編成、騎兵は18、重装歩兵は80、それ以下は少数の百人組に、無産市民は1組に押し込まれた。全部で193の百人組があり、「兵員会」はこの百人組を投票単位とし、市民はまず百人組に直接参加して投票し、組ごとの票が決まり、193の組の中で多数決で決まる。騎兵と重装歩兵の組で合計98の過半数になり、この二つの階層の意向が通るので、下層市民には事実上参政権はなかった。兵員会は最高国政担当者である執政官(コンスル)・法務官(プラエトル)を選出し、和戦の決定。死刑の宣告などをおこなった。

(3)区民会(トリブス会)

 区民会(コミティア=トリブタ) トリブスとは地縁的な行政区画で市民は必ずいずれかのトリブスに登録された。トリブス(区)を単位として選出されるのがトリブス民会で、按察官(アエディリス)・財務官(クワエストル)を選出。まれに執政官・法務官の提案する法案を審議し決定した。重大な罰金刑に関する裁判も行った。トリブスは、ローマの支配域が広がるのに伴い、ローマ市外にも設けられて増えていったが、前241年には総数35で固定された。

(4)平民会(concilia plebis)

 貴族の政権独占に反発した平民(プレブス)身分闘争を開始し、前494年聖山事件で貴族の妥協を引き出して、平民だけが構成員となる「平民会」が生まれた。平民会は護民官を選出し、護民官が議長を務めた。平民会はトリブス(居住区)を基礎とし、前447年には按察官(アエディリス)・財務官(クワエストル)などの選挙もゆだねられた。はじめはその議決は平民のみを拘束していたが、前287年ホルテンシウス法で平民会の決議が元老院の承認が無くとも国法とされることになり、全市民を拘束することとなった。それ以降は、平民会が最高議決機関となり、パトリキも参加するようになった。平民会にローマ市民全員が参加するようになると、採決はトリブス(区)ごとに投票することになるので、トリブス民会と呼ばれるようになり、名実ともに正規の市民総会となった。
注意 トリブス会と平民会 以上の記述は『新編西洋史事典』(東京創元社)を参考にした。民会のなかのトリブス会と平民会は別な機関と記述されており、その他の参考書で同じ説明が見られるが、「トリブス会」を「平民会」と同一としている説明もある。そもそもトリブス会は史料が少なく実態は判っていないことが多いらしく、その関係はわかりにくいが、次のような指摘をあげておく。
(引用)ローマには「兵員会」と邦訳されるコミティア・ケントゥリアータ(「百人組」による市民総会)と「平民会」と邦訳されるコミティア・トゥリブータの二つの民会が併存していた……(アテネとのちがいは)平民たちがその土地をもっていた区(トリブス)ごとにわかれ、全然土地のないものは中心の市をなす四区のいずれかに属していたこと、そして区を一票として決議する平民会というものをもっていたことである。この会で選ばれる護民官がその議長を務めた。護民官の拒否権と同様、この会の決議も本来の国制からみれば妙なもので、そのとりあつかいはたびたび争いを生んだ、元老院はかような非公認集会を弾圧しなかった。それは、中堅農民を主体とする平民会をまっこうから敵とすれば、兵員会の運営も他共同体に対する国防も危殆(きたい)に瀕すると判断していたことを物語る。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰』講談社学術文庫p.138>
 また「前287年のホルテンシウス法で、平民会(concilia plebis)は正式な国政上の地位を獲得し、トリブスを基礎とする正式の民会の一つとなり、いまやトリブス会(comitia tributa)と呼ばれる」という説明もある<弓削達『ローマ帝国論』p.71>。
注意 兵員会と平民会 両者の関係は次のように説明されている。
(引用)今やトリブス会と兵員会との区別は、前者の召集・提案権をもつのは護民官のみであり、後者については最高政務官(コンスルと独裁官)であるという点、護民官は前者において、政務官は後者において選挙される、という点、さらに、(前3世紀末の改革までは)投票に当たって、前者ではトリブス単位の投票が、後者ではケントゥリア単位の投票が行われる、という点のみであって、出席者はいずれも全市民であり、また選挙以外の法案がどちらに提出されるかについてもなんの区別もなくなることになった。そしてそのいずれにおいても、実質的にはノビレスの政権は確保されていたといわねばなるまい。しかしながら、それは共同体内部における政権にほかならない。ノビレスの政権は、共同体の中核すなわち重装歩兵農民との同盟の上に立っていた。<弓削達『ローマ帝国論』p.72>
さらに同書に依れば、兵員会の選出母体もやがてなんらかのかたちでトリブスと結びつけられるようになり、実質的な差はなくなるという。 → ローマ共和政 ギリシアの民会

民会の変質

 ローマの民会は35のトリブスに固定されていたため、ローマが他の都市を征服して同盟市としても、その市民にはローマ市民権が与えられなかった。その不満は、前1世のはじめにイタリア同盟市戦争として爆発し、その結果、イタリア半島の全自由人に市民権が与えられることになった。これによってローマは都市国家から領域国家に変質すると共に、イタリア全土から市民が民会に参加することはできないので、民会の機能が低下するという大きな変化が起きる。

参考 ローマの民会の実際

 ローマ市民の成人男子全員が参加する民会はコミティアと呼ばれ、構成する下部単位によってクリア民会・ケントゥリア民会・トリブス民会(平民会)の三種に分けられる。公職者の選出と立法が主な任務であり、市民の地位や生命に関する裁判も行われた。投票は一人一票ではなく、全市民がそれぞれの投票単位に分けられ、各単位ごとに投票を集計したうえで、各単位が1票を投じるしくみであった。
  • 開催日の24日前までに主催する公職者による提案(選挙の場合は候補者名、立法の場合は法案)・開催日が公示される。
  • 民会開催に先立ち市民集会(コンティオ)が開催され、法案の場合は提案者から趣旨説明が行われる。公示日から何回も開かれ、市民の発言、反対意見が交わされた。
  • 市民集会終了後、投票するための民会が開催され、まず投票資格の無いもの(平民会であればパトリキ)が遠ざけられる。
  • 投票は各単位ごと市民たちが「囲い」のなかに入り、一人ずる「橋」と呼ばれる通路を通って投票のために出てくる。古くは橋のたもとの「問いかけ人」に口頭で返答していたが、前2世紀後半には投票板を投じる方式に変更された。
  • 賛成のときは「提案通り」の頭文字のVを、反対のときは「以前のまま」の頭文字Aが記される。
  • 各単位ごとに票が集計されて、主宰する公職者に報告され、その結果は主宰者が触れ役に命じることではじめて公表される。
  • 投票は公表を持って正式に有効となるが、主宰公職者は結果を公表するかどうか自由裁量権を持っていたとされる。
<島田誠『古代ローマの市民社会』世界史リブレット③ 1997 山川出版社 p.38-40>