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スキピオ

ローマの将軍で第2回ポエニ戦争でカルタゴ軍のハンニバルを破り、大スキピオともいわれる。その子が第3回ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼした小スキピオ。

 スキピオ Scipio (前235年頃~前183年頃)はローマ共和政時代の政治家・軍人で、最大の権門であり、代表的な新貴族(ノビレス)であったスキピオ家の出身。第2回ポエニ戦争ザマの戦いハンニバル率いるカルタゴ軍を破り名声を高め、大スキピオ、大アフリカヌス、ともいわれる。

ハンニバルのカルタゴを破る

 始め父に従ってイベリア半島でカルタゴ軍と戦う。父の戦死後、カルタゴ側の拠点カルタゴ=ノヴァ(カルタヘナ)攻略に成功、前206年までにイベリア半島を平定した。スペイン遠征の成功で自信を深め、ハンニバル軍がイタリア半島南部に居座っている間に、カルタゴを直接攻撃する案を立て、消極的な元老院を尻目に民衆の支持を受けて遠征軍を率いてカルタゴに上陸した。ハンニバル軍が急遽アフリカに渡り、カルタゴに迫るとその近郊ザマで迎え撃ち、前202年ザマの戦いとなった。
 戦いに勝利したスキピオはローマの英雄となり、次いで小アジアに遠征し、セレウコス朝シリア軍を破った。スキピオの名声が高まるとその独裁化を恐れたカトー(大カトー)はスキピオを横領などの罪で元老院で告発。スキピオは政敵カトーとの争いに敗れ失意の内に引退し、前184年に没した。その孫が小スキピオで、第3回ポエニ戦争でカルタゴを破壊した人物。

Episode ローマの新田義貞

(引用)この若いスキピオがスペインに赴任した時、ローマ軍はカルタヘーナの町を攻囲していた。町を陥落させるには、海と水続きの湖を渡らなければならないが、水は背丈より深く、重装備の兵が泳ぎ渡ることは不可能である。ある朝、新任の大将は将兵を集め、昨夜の夢にネプトゥルヌス神が現れ、水深を減ずると約された、と語った。兵士たちは半信半疑でためらううち、大将みずからざんぶと飛び込み、徒歩で渡り始めたではないか。これを見た兵士たち、おめき叫んで我がちに湖に飛び入り、浅くなった湖底を徒歩で渡り、めざす城を一気に陥落させてしまう。スキピオが「神々の愛でし子」であるという評判はいよいよ信憑性を増した。このからくりは簡単で、スキピオは潮の干満を利用しただけである。兵士たちは百姓上がりで、潮汐作用についてまったく無知だった。そこで俺らの大将は神さまをポケットに入れてござっしゃると信じ込んだが、この信念がかれらの意気と力を倍増させた。<モンタネッリ/藤沢道郎訳『ローマの歴史』中公文庫 p.129>
 新田義貞が鎌倉を攻めるとき、稲村ヶ崎の岩頭で愛刀を海に投じ龍神に祈ったところ海水が引いて、兵が徒渉できたと太平記にあるが、おそらく義貞は前もって近くの漁民から引き潮になる頃合いを聞いておいたのだろう。潮の満ち引きなど知らない山国育ちの新田勢の兵は義貞のパフォーマンスに欺されたに違いない。洋の東西、将官たるもの、兵をいかに欺すかが勝負だったようだ。
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モンタネッリ
『ローマの歴史』
中公文庫