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ハンニバル

ポエニ戦争でローマを苦しめたカルタゴの将軍。戦象を率いてアルプスを越え、前216年、カンネーの戦いでローマ軍を破ったが、ザマの戦いではスキピオのローマ軍に敗れた。

 ハンニバル Hannibal (前247~前183)は、古代カルタゴの将軍。イベリア半島のヒスパニアを拠点とし、ポエニ戦争の過程で最大の激戦となった第2回ポエニ戦争(前218~前201年)で、象部隊をふくむカルタゴの大軍を率いてアルプスを越えてイタリア半島に侵入、各地でローマ軍を破った。特に前216年に両軍の決戦となったカンネーの戦いでローマ軍を破り、大きな脅威を与えた。14年刊も半島にとどまって転戦、前202年、ローマの将軍スキピオが北アフリカに侵攻したため、海路北アフリカにもどり、カルタゴ近郊のザマの戦いで戦ったが敗れた。その結果、カルタゴは海外領土を失うなどの厳しい条件で講和し、弱体化した。ハンニバルはカルタゴ再興を策して活動を続けたが、やがて東方のシリアなどに亡命し、前183年に自殺した。その死後に起こった第3回ポエニ戦争の結果、カルタゴは前146年に滅亡する。 → ポエニ戦争地図 ハンニバル関係地名"

第2回ポエニ戦争

 父のハミルカルもカルタゴの将軍で、第1回ポエニ戦争でローマ軍と戦い、その後カルタゴで傭兵の反乱を鎮圧して名を挙げた。その子ハンニバルは父がイベリア半島に築いたカルタゴの植民地のヒスパニアで育ち、父の死後、26歳でカルタゴ軍を率いる将軍となった。前218年第2回ポエニ戦争が起きるとのカルタゴ=ノヴァ(カルタヘナ)を出発し、戦象30、歩兵5万、騎兵9千を連れてピレネー山脈を越え、さらに冬のアルプスを超えてローマ領内に攻め込んだ(アルプス越えのルートには諸説あって明らかではないが、ローマの歴史家ポリビオスによれば15日かかかったという)。ローマではこの戦争をハンニバル戦争とも言う。
カンネーでの勝利 その後イタリア半島を転戦、ローマの将軍ファビウスの持久戦法に悩まされたが、ファビウスが元老院で罷免された後の前216年、ローマ軍が決戦を挑んでくると、カンネーの戦いで巧みな戦法を駆使して大勝した。ハンニバルはローマの同盟市が反乱を起こすことを期待したが、その動きはなく、また長期の遠征でカルタゴ軍も疲弊し、本国からの補給も途絶え、略奪行為などが続いた。結局、ローマを直接攻撃することはできず、ハンニバル軍のイタリア転戦は14年に及んだ。
ザマでの敗北 ローマ軍はイタリア半島ではハンニバル軍を破ることはできなかったが、シチリア島やイベリア半島では有利な戦いを進めていた。ローマの将軍スキピオヒスパニアでカルタゴ軍を破った後、カルタゴ本国の攻撃をはかり、海をわたってアフリカの海岸に上陸した。その知らせにハンニバルは急遽カルタゴに戻り、両軍は前202年のザマの戦いで対決した。この戦いに敗れたハンニバルは、その後もカルタゴにとどまったが、親ローマ派が台頭したため脱走し、小アジアのアンティオキアなどに亡命した。なおも各地で反ローマ連合を働きかけたがはたさず、ローマの追跡を受け、前183年自殺した。

Episode ハンニバルの戦象部隊

 ハンニバルは象部隊を率いてアルプスを越えたことで有名であるが、その戦象については次のような説明がある。
(引用)ハンニバル軍の戦象の主体としてのアフリカ象は、森の小型の象であり、灌木地帯のアフリカ象ではない。肩までの高さは、2.4m(インド象は3m。灌木地帯のアフリカ象は3.3m)。ただし前218年から217年にかけて生き残った象シュルスは、カトーによれば、第2回ポエニ戦争 中、最も勇敢に戦ったインドの戦象だったという。ところで、この小型のアフリカ象は-よく画に見られるように-上に象カゴをつけるには小さすぎ、一人の象使いがこれに乗って投げ槍を使ったものであろう。<長谷川博隆『ハンニバル』1973 講談社学術文庫 p.60>
 なお、象を戦争に使い始めたのは、ナイル上流にあって前8世紀にエジプトを支配したクシュ王国で、ハンニバルもクシュ人から学んだという。

News アルプス越えのルート判明か(2016/4/6)

 前218年、ローマと戦っていたカルタゴの将軍ハンニバルが数万の歩兵、数千の騎兵、30頭の象とともにアルプスを越えてローマ領内に攻め入った。越えた場所は謎だったが、フランスとイタリアの国境付近にある標高約3000mのコル・ド・ラ・トラベルセットであることがわかった。イギリスのクィーンズ大学ベルファストの研究チームは、通った可能性のある場所の堆積物に含まれる微生物や化学物質、花粉などを詳細に調べた結果、同地の堆積物から、ウマの糞などからつくった堆肥にみられるクロストリジウムという細菌が検出されるなど、多くの動物が通ったことを示す証拠が見つかったという。研究チームのクリス・アレン博士は「クロストリジウムは非常に安定で、土の中で数千年生き続ける」と説明している。<新聞赤旗 2016年4月6日 による>
 クロストリジウムという細菌が検出されたのが象のフンだったら、もっとはっきりハンニバル軍が通ったとわかるのでしょうが。

参考 その後のハンニバル

 高校で学ぶハンニバルは、ザマの敗戦で終わるが、その後の彼の生涯には実に興味深い。彼の存在はポエニ戦争の中だけで語られるべきではなく、古代の地中海世界のすべてが舞台となっていたことがわかる。以下、長谷川博隆氏の『ハンニバル』からの要約。
ティルスに亡命 ハンニバルは、前200年、将軍職を辞したが、その後もカルタゴにとどまり、その再建に努力した。しかし敗戦の責任を問う反ハンニバル派の貴族も多かった。ローマはポエニ戦争と並行して前214年に東方のアンティゴノス朝マケドニアとの間でマケドニア戦争(第1回)を戦い、苦戦の末、講和に持ち込んでいた。ところが、東方で新たにセレウコス朝シリアが進出し、ローマを脅かすようになった。ハンニバルはセレウコス朝と結んで再びローマと戦おうと考えたらしい。そのようなハンニバルの動きを警戒したローマは使節をカルタゴに送り、反カルタゴ派の貴族を動かしてハンニバルを弾劾させた。やむなくハンニバルは、前195年、カルタゴの母市であるかつてのフェニキア人の都市ティルス(ティロス)に亡命した。ティルスはそのころセレウコス朝の支配下に入っていた。
反ローマの国際同盟を結成 さらにセレウコス朝シリアの保護を受けるため、アンティオキアを経てエフェソスに移った。その地でハンニバルは、アンティオコス3世に対ローマ戦争を働きかけ、さらにマケドニアやエジプトなどヘレニズム諸国と同盟してローマにあたることを主張した。前192年、シリアのアンティオコス3世はその言に従いギリシアに出兵したが、カトーの率いるローマ軍に敗れ、前190年、海軍を率いて出撃したハンニバルもローマに味方したロードス海軍に敗北した。
アルメニアに亡命 ローマはハンニバルを危険人物としてシリアに引き渡しを要求したので、翌年クレタ島のゴルテュンを経てアルメニアに亡命した。さらに小アジアの北西部の小国ビテュニアに移った。その地でも隣国のペルガモン王国との紛争に介入、策謀を止めなかった。
反ローマを貫いた生涯 この間、地中海制覇を続けたローマは、ビテュニア王にハンニバルの引き渡しを要求、ハンニバルはローマの手に渡ることを拒み、みずから毒を飲んで自殺した。この反ローマに生涯を捧げ、地中海世界を駆け回った男が自死したのは前183年のことであった(年代には異説があり明確ではない)。カルタゴが滅亡するのはさらにその後、第3回ポエニ戦争の結果、前146年のことである。<長谷川博隆『ハンニバル』1973 講談社学術文庫 p.175-208>
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長谷川博隆
『ハンニバル』
1975 講談社学術文庫