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イベリア半島

ヨーロッパの西に連なり、ピレネー山脈で区切られた地域。地中海世界の西端にあたり、キリスト教とイスラーム教の交差する地域となったため、12世紀には両文明の宥和した独自の文化が生まれた。中世のキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の結果、イスラーム勢力は排除され、その過程で形成されたスペインとポルトガルは15~16世紀の大航海時代を推進した。17世紀以降は衰退し、現在ではヨーロッパの後進地域といった状況におかれている。

イベリア半島地図
イベリア半島 Yahoo Map

イベリア半島史の概略

 ヨーロッパ大陸の一部であるピレネー山脈で区切られた半島。西は大西洋、北はビスケー湾、東は地中海にそれぞれ面し、南はジブラルタル海峡でアフリカ大陸と隔てられている。フェニキア人やギリシア人が地中海東部から交易のためにやってきて、海岸にいくつもの植民市を作っていった。最初にイベリアを統治したのはカルタゴであったが、前3~2世紀にかけて展開されたポエニ戦争ではイベリア半島も戦場となり、大きな影響を与えた。その結果、前2世紀を通じてローマによる属州ヒスパニアとしての支配を受けることとなった。ローマ帝国下のの地中海世界に組み込まれたことで、コルドガなどの都市ではローマ化が進んだ。
 中世においてはゲルマン民族の移動がイベリア半島にも及び、その一派の西ゴート王国が建国された。西ローマ帝国から西ゴート王国への経過の中でキリスト教(ローマカトリック教会)が半島に広がったが、8世紀にイスラーム教勢力がジブラルタルを超えて浸透するという激変が起こった。
 イベリア半島のイスラームは後ウマイヤ朝以降のムスリム系王朝に継承されたが、当初はイスラーム教とキリスト教・ユダヤ教は対抗しながらも共存し、文化を交流させていた。イスラーム文明を仲介として古代ギリシアの文明がヨーロッパにもたらされた12世紀ルネサンスの中心地の一つがトレドだった。しかし、キリスト教(カトリック教会)の復興を使命としてレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復運動)が十字軍運動の一環として展開されていく過程で、この文化的共存は崩れていった。その過程でカスティーリャ、アラゴン、ポルトガルなどのキリスト教国が生まれた。
 キリスト教諸国のなかで主権国家としても最も早い統一国家を形成させたポルトガル王国スペイン王国(イスパニア王国)は、それぞれレコンキスタを推進させるとともに、15世紀末に大航海時代の先鞭を切って海外に進出し、両国とも植民地帝国として繁栄した。特にスペイン王国はグラナダのイスラーム教国を滅ぼしてレコンキスタを完成させた1492年コロンブス艦隊がアメリカ大陸に到達し、新大陸に領土を獲得、1580年からはポルトガル併合(~1640年)し、広大な海外領土を誇った。
 しかし、17世紀には急速にその地位をイギリスやオランダに奪われていき、スペインの繁栄は終わりを告げ、ポルトガルと共に一部の植民地を維持するのみとなった。教会と大地主の支配が続いたイベリア半島の二国の経済的成長は遅れ、他のヨーロッパ諸国との比較では後進地域とされるにいたった。第一次世界大戦後は社会的対立が深刻となる中で、スペインにはフランコ、ポルトガルにはサラザールというファシズム体制が生まれ、第二次大戦で中立を守ったことによって戦後も独裁政治が続いた。しかし、いずれも1970年代から民主化が始まり、それぞれEUの一員となって一定の安定をみせている。しかしスペインでは、バスク地方やカタルーニャ地方の分離独立運動を抱え、世界の注目も浴びている。
「アフリカはピレネーから始まる」 イベリア半島では「アフリカはピレネーからはじまる」という言葉があるように、ヨーロッパ中心部と異なる歴史と文化を有している。しかし、イスラーム支配の時代には、コルドバやトレドはイスラームをつうじてギリシア文明やラテン文明が伝えられ、最も高度な学問研究が行われていたことを忘れてはならない。また古代ローマ時代、ゲルマン人時代、イスラム時代、レコンキスタ時代の文化が重層的に残っており、独特な文明圏(世界)を形成しているともいえる。

(1)カルタゴ・ポエニ戦争の時代

イベリア半島の文明形成

 イベリア半島には約4万年前の旧石器時代後期から人々が住み始めた。スペインのアルタミラやポルトガル北部には約2万年前のクロマニヨン人が描いたと思われる洞穴絵画が残されている。前3000年頃、イベリア半島でも新石器時代に入ったことが、農業遺跡と共に巨石文化が見られることでわかっている。前1000年頃、地中海世界に進出したフェニキア人が青銅器文明を半島に伝え、地中海に面する地域で東方との交易を盛んに行った。さらに前6世紀ごろにギリシア人が進出、ギリシア人がこの半島の住民をイベリア人と呼んだ。前900年から前650年にかけて、北方のピレネー山脈を越えてケルト人が移住し、彼らが鉄器文明をもたらすと共にイベリア人に同化していった。

カルタゴの支配とポエニ戦争

 フェニキア人が北アフリカに建設したカルタゴが西地中海で有力となり、前6世紀中ごろその勢力がイベリア半島のギリシア系都市を制圧した。カルタゴはイベリア半島のなどの鉱物資源を得て、ひろく西地中海で交易を行った。前3世紀までにイタリア半島を統一し、西地中海への進出を開始したローマとまずシチリアの利害をめぐって衝突し、前264年ポエニ戦争が始まった。この戦争ではカルタゴはイベリア人を傭兵として戦った。第1次ポエニ戦争でカルタゴはシチリアを失うこととなり、替わってイベリア半島の経営に力を注ぐようになり、カルタゴ=ノヴァ(現在のカルタヘナ)を建設して拠点とした。他に、バレンシア、バルセロナ、アルメリアなどがカルタゴが建設した都市である。
 特に第2回ポエニ戦争ではカルタへナを拠点としていたハンニバルが長躯してイタリア半島をに侵入してローマを大いに脅かすと、起死回生を狙ったローマの将軍スキピオがイベリア半島に侵攻し、イベリア半島は戦闘の場となった。前202年、カルタゴに戻ったハンニバル軍とスキピオのローマ軍のザマの戦いはローマ軍の勝利となり、敗れたカルタゴはイベリア半島を放棄した。

(2)属州ヒスパニア

ローマの属州ヒスパニア

 イベリア半島に入ったローマはまず前205年属州ヒスパニアとした。ラテン語のヒスパニアから現在の英語のスペインが生まれることになる。さらにローマは前197年にヒスパニアを東部の「キテリオル・ヒスパニア」(近い方のイスパニアの意味)、西部の「ウルテリオル・ヒスパニア」(遠い方のヒスパニアの意味)にわけて属州支配を強めようとした。ローマは属州支配の拠点として植民市コルドバを建設したが、カルタゴに替わって支配者となったローマに対して、イベリア人は従順ではなく、ローマが支配を内陸に伸ばそうとしたことに抵抗を開始した。<属州としてのヒスパニアについては、宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』2024 講談社現代新書 p.105以下に詳しい>

属州ヒスパニアの反乱

ルシタニア戦争 ルシタニア人は現在のポルトガル一帯に住んでいた人々で民族系統は不明だが、フェニキア人やギリシア人以前からイベリア半島南西部に居住していた。第2回ポエニ戦争でカルタゴと戦うローマ軍が侵攻、その後半島東部に属州ヒスパニアが作られた。前2世紀、属州のローマの勢力が半島西部のルシタニアに及ぶと、各部族は連合して抵抗し激しい戦闘が繰り返された。この前154年~前138年の戦争をルシタニア戦争という。ルシタニア軍はしばしば属州に攻め込んだこともあった。ルシタニア人を指導したのはウァリアトゥスという人物で、8年間もローマ兵と戦い、前146年にはローマの属州ウルテリオル総督を敗死させた。ウァリアトゥスはローマに買収された腹心によって殺されたが、現在でもポルトガルでは英雄とされており、16世紀のポルトガルの詩人カモンイスはウァリアトゥスをポルトガル人のルーツであるとして国民的叙事詩を書いている。ルシタニア人の反乱はその後、前138年まで続き、ローマ軍に制圧された。
ケルトイベリア戦争 ルシタニア戦争が激しかった時期、属州キテリオルではケイトイベリア人とローマの戦いが始まっていた。イベリア半島中央部に居住するケルトイベリア人(ケルト系の先住民)が、自分たちの居住地の周りに囲壁を建てることを元老院に申請したが認められず反乱のおそれが出たので、前153年にローマ軍が出動した。ローマ軍の攻撃に対して、ケイトイベリア人は、ヌマンティアに城塞を構え、自然の地形に恵まれて抵抗を続けた。前134年に属州に派遣された小スキピオは、ローマ軍の規律を高め、ヌマンティア城塞を包囲する砦網を築いて兵糧攻めを行った。8ヶ月に及ぶ籠城戦は凄惨を極め、その凄惨なあり様は歴史家アッピアノスが伝えており、後にはセルバンテスが戯曲を書いている。前133年、ヌマンティアは無条件降伏に応じ戦いは終わったが、小スキピオは生き残った住民の内50人は凱旋式で晒すために手元に置き、残りは奴隷に売却、城郭と都市はすべて破壊した。<宮嵜『前掲書』p.161-194>
本国ローマへの影響 またイベリア半島が属州ヒスパニアとしてローマに組み入れられたことによって、そこからローマに流入した安価な穀物がローマ共和政の社会・経済を変質させ、中小農民の没落を招いて閥族派は平民派などの有力者を出現させ、次の前1世紀の「内乱の1世紀」をもたらした要因の一つとなった、とも考えられる。

内乱の1世紀と属州ヒスパニア

セルトリウスの反乱 前80~70年代、ローマのヒスパニア総督セルトリウスは、原住民イベリア人の支持を受けてローマに反抗し、「第二のローマ」を樹立しようという動きを示した。これは東方小アジアのポントス王ミトリダテスの反ローマ闘争(ミトリダテス戦争)とも連携し、地中海東西で同時に起こった反ローマ運動となったが、ポンペイウスによって鎮定された。
ポンペイウスとカエサル その後イベリア半島には、前61年にはカエサルが統治者となってローマ化を推進した。前60年、第1回三頭政治が成立、ヒスパニアはポンペイウスの勢力圏とされた。三頭政治が崩壊し、カエサルとポンペイウスの内戦となり、ギリシアに逃れたポンペイウスが前48年のファルサロスの戦いに敗れ、最後はエジプトで殺害されてカエサルの勝利が確定した。ヒスパニアにはポンペイウスの遺児が反カエサルの拠点としていたので、カエサルはヒスパニアに遠征、前45年3月、ムンダの戦いでポンペイウスの遺児の率いる軍を破り平定した。
パックス=ロマーナ カエサル暗殺後の主導権を握ったオクタウィアヌスは、前27年にアウグストゥスの称号を贈られて帝政を開始、前19年にイベリア半島北部も征服、地中海世界全域のローマの平和(パックス=ロマーナ)が完成した。

イベリア半島のローマ化

ヒスパニアの5属州 ローマ帝国は、イベリア半島を初めは三つの属州に分けて支配した。東部と北部はタラコネンシス(州都タラッコ。現在のタラゴーナ)、南部はバエティカ(州都はコルドバ)、西部はルシタニア(州都はエメリダ=アグルスタ、現在のメリダ。現在のポルトガルを含む)といった。3世紀末のディオクレティアヌス帝の時代にはタラコネンシス属州からカルタギエンイス(東部、州都カルタヘナ)とガッラエキア(北西部、州都ブラガ)の二つの属州が分離し、5つに分割された。属州でローマ市民権を付与されたものは大土地所有者として農場を経営し、ぶどうやオリーブの輸出で富を蓄えた有力者であり、彼らがヒスパニアのローマ化を進めた。212年、カラカラのいわゆるアントニヌス勅令で、帝国内の属州の自由民すべてに付与された。
ヒスパニア出身のローマ皇帝 イベリア半島のローマ化が進んだ結果、イベリア半島出身者の中からもローマ皇帝となるものが現れた。 五賢帝のなかのトラヤヌスハドリアヌス、キリスト教を国教としたテオドシウスなどはいずれもヒスパニア出身者であった。
ローマ文化 安定したローマの属州支配のもとで、 イベリア半島各地に神殿や円形劇場を持つ都市が建設され、都市を結ぶ道路や水道路などが造られて現在も半島各地にローマ時代の建造物が遺跡として残されている。ローマが建設した「アウグストゥスの道」は南端のカディスから南フランスのナルボンヌに至る幹線道路であり、途中には軍団兵士を入植させて植民市として作られた都市が残っている。セゴビアにはトラヤヌス帝の時に築かれた二層の水道橋が残っている。
 また属州ヒスパニアは、金、銀、銅などの鉱物資源や、ブドウ酒やオリーブ油の産地として経済も繁栄した。この時期にはローマ文化(ラテン語など)も盛んになり、ヒスパニア出身でローマで活躍した人物も多く、ストア哲学者セネカはその代表的人物で、コルドバの出身である。しかし、その反面、 先住民の言語が失われて、俗ラテン語が共通語として使用されるようになり、そこからロマンス語であるスペイン語やポルトガル語が分化した。また、紀元1世紀にキリスト教が伝えられ、先住民の宗教を取り込みながら(具体的には土着神を守護聖人として信仰するなど)、3世紀ごろまでにひろがったことが重要である。

(3)西ゴート王国とイスラーム化

西ゴート王国

 ゲルマン人の移住の波は5世紀にイベリア半島に及んだ。まずヴァンダル人がこの地に入ったが、彼らはさらにジブラルタルを超えて北アフリカに移動した。411年にはスエヴィ人が半島北西部に王国をつくり、415年にはフランク人のクロヴィスに敗れた西ゴート人が西ゴート王国を建国、507年にトレドを都にし、585年にはスエヴィ王国を滅ぼして半島を統一した。西ゴート王国は一時はフランス南部も支配して強大となり、北アフリカのヴァンダル王国やイタリア半島の東ゴート王国がユスティニアヌスの東ローマ帝国に滅ぼされても、西ゴート王国は存続した。

イスラームの侵入

 711年ジブラルタル海峡を渡って北アフリカからウマイヤ朝のイスラーム勢力が侵入、西ゴート王国を滅ぼし、北方のアストゥリアス地方をのぞいたほぼ半島全域を支配することとなった。イスラーム支配地域はアンダルス(かつてこの地を支配していたヴァンダル人の地、の意味。現在のスペイン南部の地方名アンダルシアの語源)と言われた。8~15世紀の約800年にわたるイスラーム支配の時期は、イベリア半島の文化に強い影響を残している。
イスラーム進出の背景 イスラーム勢力が短期間にイベリア半島のほぼ全域を支配できたのは何故だろうか。711年、半島に侵入したイスラム軍は、西ゴート王国の内紛に乗じていた。イスラーム軍はゴート人に支配されていたヒスパノ=ロマーノ、ラティフンディアの農奴コロヌスからは解放者として迎えられ、しかも寛容政策をとり人頭税を納めるか改宗すれば財産を保持することを許したこと、などがその理由と指摘されている。さらにイスラーム軍の主体だった北アフリカのベルベル人は文化的には進んでいたヒスパノ=ロマーノやゲルマン人の社会に適応しようと努めたこともあって、イスラム支配はその後長く続くこととなった。イスラーム支配下でキリスト教の信仰を守りつづけた人々はモサラベといわれた。

後ウマイヤ朝

 750年、バグダッドにアッバース朝が成立すると、ウマイヤ朝の一族の一人がイベリアに逃れ、756年後ウマイヤ朝を樹立し、都をコルドバとした。929年アブド=アッラフマーン3世は、みずからカリフを称して宗教的にも独立し、バグダードとカイロのカリフと対抗することとなった。その都コルドバは学問、文芸の中心地としてヨーロッパのキリスト教国からも人々が集まってきた。この時期にはユダヤ人は王宮の財政や外交にも登用されて活躍し、コルドバにもユダヤ人居住区が作られ多数居住していた。
 しかし後ウマイヤ朝は1031年にはカリフが死去すると、カリフの地位をめぐって内紛が起こり、統一的支配は終わった。その後はイスラーム圏の半島各地にはターイファ(太守)が分立する第1次ターイファ時代といわれる分裂期となった。コルドバのイスラーム勢力は衰え、セビリャトレドグラナダ・バレンシアなどの地方勢力がそれぞれ王国を称した。こうしてイスラーム勢力が分裂したことは、半島北部のキリスト教徒による、国土奪回の動きの活発化をもたらした。

国土回復運動の展開

 11世紀中頃から半島北部のキリスト教徒によって勢力回復運動である国土回復運動(レコンキスタ)が活発になった。1085年にはトレドがキリスト教国カスティリヤ王国によって奪回された。
ムラービト朝の侵攻 しかし、11世紀末には北アフリカから新たなイスラーム教勢力であるムラービト朝が半島に侵入してきたため、半島南部のアンダルシア地方は再び奪われてしまった。ムラービト朝は、厳格な初期のイスラーム教への復帰を掲げていたので異教徒には不寛容であったため、多くのユダヤ人は北のキリスト教圏や地中海東部のエジプトなどに逃れていった。またその不寛容さは半島の住民の反発も受け、その半島支配は不安定であったため、北方のキリスト教勢力による国土回復運動は再び盛んになっていった。この間、キリスト教圏では1143年カスティリャ王国からポルトガル王国が分離して成立した。
ムワッヒド朝の侵攻 ムラービト朝はイベリア半島南部を支配するうちに、次第に本来の厳格なイスラーム信仰が揺らいだと言われている。それに不満であった北アフリカのベルベル人の中から、新たに厳格なイスラーム信仰に回帰しようとする勢力が現れ、ムラービト朝を倒し、ムワッヒド朝が登場した。ムワッヒド朝は強力な軍事力を有し、1160年に半島に侵入、1172年は再びアンダルシア地方を占領した。このようにキリスト教徒とイスラーム勢力(ベルベル人=モーロといわれた)の戦いは一進一退を繰り返しながら、互いに影響を与え、半島独自の文化が形成されていった。

国土回復運動が優勢に

 1212年カスティリヤを中心としたキリスト教軍とムワッヒド朝イスラーム勢力のラス=ナバス=デ=トロサの戦いは、国土回復運動の転機となった。この戦いでキリスト教軍が大勝してから形勢は逆転し、それ以後はイスラーム勢力は後退をかさね、カスティリャ王フェルナンド3世は1231年にコルドバ、1248年にセビリャを征服し、ポルトガルではアフォンソ3世が1249年にまでにファロ、シルヴェスを奪ってイスラーム勢力を排除した。その結果、イベリア半島には、グラナダ王国のナスル朝だけを残すこととなった。

(4)カスティリャとポルトガル

カスティリヤ・アラゴン・ポルトガル

 レコンキスタの過程で、半島には幾つかのキリスト教国が生まれたが、その中から、北西部から中央部にカスティリヤ王国、北東部にアラゴン王国、南西部にポルトガル王国などが有力となっていった。
カスティリャ王国 カスティリャ王国はレコンキスタの中心勢力として有力となったが、1360年代に王位継承をめぐる内乱が勃発、百年戦争の英仏対立と結びつき、双方の傭兵が横行する事態となった。1369年に国王ペドロ1世を戦死させたトラスタマラ家のエンリケ2世が即位し、トラスタマラ朝を成立させた。このときペドロ1世の宮廷がユダヤ人を登用していたことに対し、新王側がユダヤ人を攻撃したことからユダヤ人に対する迫害が次第に強まっていった。1391年にはセビリャで大規模な反ユダヤ暴動が起こり、多数のユダヤ人が殺害され、強制的なキリスト教への改宗が行われた。
アラゴン王国 アラゴン王国は、その勢いを地中海進出に向け、1282年にフランスのアンジュー家が支配していたシチリアで「シチリアの晩祷」事件が起きると介入してその支配権を獲得し、さらにサルデーニャやマジョルカなどを領有、アルフォンソ5世は1443年、ナポリ王国王位も兼ね、地中海の「海洋帝国」といわれるようになった。
ポルトガル王国 ポルトガル王国は、カスティリャと共に1212年のイスラーム勢力との戦いに勝って国力を高め、1297年、ディニス王はカスティリャ王国とのアルカニーゼス条約を結んで両国の国境を画定した。その後もカスティリャの介入が続いたが、1385年、ジョアン1世によりアヴィス朝が成立、小国ながら統合を強め、大西洋に面しているという地の利を生かして海洋に進出、15世紀の大航海時代の先陣を切ることとなる。

スペイン王国の成立とレコンキスタの完成

 イベリア半島の南西を除いて支配を及ぼしたカスティリヤ王国と、半島北東部から地中海方面に勢力を伸ばしたアラゴン王国の二者は、イサベル女王とフェルナンド王子が結婚することによって合同の前提を作り、1479年に両国は合同してスペイン王国(イスパニア王国)を形成した。
 フェルナンドイサベルの両王は、1492年1月、イスラーム勢力最後のナスル朝の都グラナダを征服して、レコンキスタを完了させた。同1492年10月には、スペインの派遣したコロンブス艦隊が大西洋を横断、西インド諸島に到達した。また統一的支配のためには宗教政策の強化も必要と考え、同1492年3月31日には、両王の名で、ユダヤ教徒追放令を出してユダヤ人を国外に追放、カトリックの立場を明確にした。このように1492年という年はこのようにスペインにとって大きな転換点となる年であった。

イベリア両国の海外進出

 ポルトガルとスペインは、大航海時代以降、アジアと新大陸で植民地獲得競争を開始、15世紀末には教皇子午線トルデシリャス条約植民地分界線をひき、勢力圏を分割した。次第にスペインが優位にたち、1580年にはスペインのポルトガル併合が行われた。1640年にポルトガルは独立を回復するが、17世紀以降はイギリスとオランダの海外進出がイベリア半島の二国を上回るようになり、二国は衰退期に入る。

イベリア半島の文化の独自性

 これらのイベリア半島諸国は国土回復運動でのイスラーム教徒との戦いの中で、強固なカトリック信仰を持つようになった.半島の北西にあるサンチャゴ=デ=コンポステラは、キリスト教の聖地の一つとして、多くの巡礼が訪れている。16世紀のヨーロッパは宗教改革の時代となるが、イベリア半島のスペイン・ポルトガルの二国は、常にカトリック教国として、異端審問などをつうじてプロテスタントを厳しく排除し、またユダヤ人に対しても次第に不寛容になっていった。このカトリック信仰熱はやがてスペインをカトリックの守護国におしあげ、スペイン人の中から反宗教改革の中心となるイエズス会が生まれた。彼らの熱心な布教活動は、大航海時代のスペイン・ポルトガルの海外進出と結びついていった。
 ところがイベリア半島では、同時にイスラームの影響を受けて独自の文化を発展させ、現代に至るまでヨーロッパでも特色のある地域となっていることも見逃せない。イベリア半島の最後のイスラーム教国として1492年まで存在したナスル朝の都グラナダアルハンブラ宮殿が最も良く知られた遺産であるが、それ以外にもイスラーム文化の影響は、潅漑農業とともに米、サトウキビなどが伝えられたこと、建築技術や医学などの自然科学にも見られる。また音楽や文学の中にもイスラーム的要素は伝えられており、スペイン語やポルトガル語には多数のアラビア語の語彙が入っている。
 → これ以降は、スペインポルトガルをそれぞれ参照。