カトー
ローマ共和政末期の政治家、弁論家で軍人。大カトーという。第2次ポエニ戦争後、ギリシア遠征で功績をあげ、コンスル、元老院議員となる。スキピオの権力独占を阻止し、一方でカルタゴ滅亡を主張。孫の小カトーも共和派としてカエサルに徹底して反対し、殺された。
マルクス=ポリキウス=カトー Marcus Porcius Cato 前234年~前149年 はローマ共和政が大きく転換した前2世紀の政治家。出身はローマではなく、ローマ市民権を与えられた自治市のひとつトゥスクルムの生まれの一介の農民であったが弁論にすぐれ、ポエニ戦争の時代のローマに出て貴族のフラックスという人物の保護を受け、弁護士として活躍し、多くの裁判で勝利に導き、前199年、30歳の時に政務官の一つ造営官の選挙に出馬して当選して以来、財務官、執政官、護民官、戸口監察官選挙に次々に当選して、それぞれの役職を務めて地位を高めていった。「戦時には武官に転進して功を挙げた。やたらと口やかましい将軍だったに違いないが、兵士たちと同列に徒歩で行軍し、沈着かつ勇猛、戦勝のときには各員銀一斤分の掠奪を認め、残りはすべて国家に納めて一銭も私することがなかったから、案外人気があった」<モンタネッリ『ローマの歴史』p.145>
この人物を大カトーというのは、曾孫のカトーと区別するためで、この曾孫の小カトーは、曾祖父の民主政(共和政)の伝統を守ろうという姿勢を受け継ぎ、前46年にカエサルの独裁に反対して殺害されている。小カトーはストア派哲学者でもあってローマ史で知られた人物であった(後述)。人名を大小で区別するのは、ローマ時代のスキピオだけでなく、近代イギリスのピットなど(こちらは小ピットの方が有名)、西洋人がすきなネーミングのようだ。
カトーはカルタゴ再征服を主張していたが、第3回ポエニ戦争が始まったのは彼が死んだ前149年のことだった。カトーはカルタゴ滅亡を見ずに死んだことになる。
なお、プルタルコスの『英雄伝』にはカトーが奴隷をどのように扱っていたか、興味深い話しが幾つか見ることができる。 → 奴隷(ローマ時代)の項を参照。
クラッススの戦死で三頭政治が崩れ、前52年、ポンペイウスとカエサルの対立が鮮明になると、小カトーはポンペイウス支持に踏みきり、前49年にカエサルがルビコン川をわたってローマに進撃すると、ポンペイウスと共にギリシアに逃れた。前48年のファルサロスの戦いでポンペイウス軍が敗れると、別行動をとり、北アフリカに逃れた。ポンペイウスがエジプトで殺された後、カエサルはポンペイウス派の一掃を進め、小カトーのもとにも迫ってきたため、前46年にウティカで戦ったが敗れ、自殺した。
大カトーといわれる
マルクス=ポルセリウス=カトーは、元老院を基盤としたローマ共和政の「よき伝統」である民主政を守ろうとした点、またギリシアを征服したことからギリシア風の文化がローマに流行したことに反発した点などでは保守派と言える。その本領は、第2回ポエニ戦争のザマの戦いでローマを勝利に導いたスキピオが戦利品を不当に独占し、個人崇拝を得ようとしたことに強く反対し、元老院で告発したことであろう。また、カルタゴに対しては妥協、共存を否定し、「カルタゴは滅ぼされなければならない」とつねに演説した。この人物を大カトーというのは、曾孫のカトーと区別するためで、この曾孫の小カトーは、曾祖父の民主政(共和政)の伝統を守ろうという姿勢を受け継ぎ、前46年にカエサルの独裁に反対して殺害されている。小カトーはストア派哲学者でもあってローマ史で知られた人物であった(後述)。人名を大小で区別するのは、ローマ時代のスキピオだけでなく、近代イギリスのピットなど(こちらは小ピットの方が有名)、西洋人がすきなネーミングのようだ。
参考 カトーから見えてくるもの
カトーは共和政ローマ時代の歴史上、最も有名な人物の一人であるが、悲しいかな日本の歴史教育では出てこない。歴史用語の削減が叫ばれている昨今、カトーの名が日本の世界史教科書に顔を出す望みはますます薄くなっているが、けして英雄豪傑ではなく、人格的に異常なところがありながらローマ史に名を残したこの人物は、保守派、国粋主義者といわれることもあるが、政治や戦争、文化、制度との人間の関わりのあり方を考えると興味深い人物である。つまり歴史に学ぶ意義が見えてくるような気がする。材料は、プルタルコスの『英雄伝』とモンタネッリの『ローマの歴史』しかないが、それらからカトーの話をいくつか紹介しておこう。英雄スキピオを告発する
(引用)前187年、護民官カトーは、アジアから凱旋したスキピオ・アフリカヌスとその弟ルキウスに対し、アンティオコス王から受け取った賠償金の明細を元老院に報告するよう要求する。完全に適法の要求であったが、現実にはザマの勝者の威信は圧倒的なものがあり、それに明いて挑戦する審理要求は、全ローマを驚倒させた。大スキピオの廉潔と名声を知らぬはずのないカトーが、この思い切った行動に出た理由はよく分からない。名声や功績の如何にかかわらず将軍は元老院にすべてを報告する義務がある。この原則が無視されたのを憤ったのか、それとも、お洒落でギリシアかぶれのモダニスト揃いのスキピオ家に敵意をいだいていたのか。<モンタネッリ/藤沢道郎訳『ローマの歴史』中公文庫 p.129>弟のルキウスは元老院の居並ぶ前で賠償の明細書をビリビリと引き裂いてしまう。ルキウスは民会に喚問され横領罪に問われるが、もう一人の護民官ティベリウス・センプロニウス・グラックスが拒否権を発動して刑の執行は免れた。このグラックスはスキピオの娘コルネリアの夫で、後の改革者グラックス兄弟の父親となる。
(引用)スキピオは出頭を拒否、政敵の執拗さに気を腐らせ、山荘に引きこもり死ぬまでローマに出ず、追求者もそれ以上彼を苦しませなかった。カトーだけはローマ史上初めて審理の公正が妨げられたと、ブツブツ文句を言った。かれの不満はもっともであった。かれが告発したのは個人崇拝の最初の兆候である。それが社会を腐敗させ、民主主義を破壊するに至る。その後のローマ史の歩みは、かれの洞察と危惧の正しさを十分証明している。<モンタネッリ『同上書』p.147>
“カルタゴは滅ぼさなければならない”
第2回ポエニ戦争でスキピオの率いるローマ軍がザマの戦いで大勝し、カルタゴが降伏したことによって、ローマの人々が危機は去ったと安堵したのに対して、カトーはその後もことあるごとに人々にカルタゴを消滅させなければならないと主張しつづけた。(引用)カトーは元老院で上着(トガ)をたくし上げてリュビアでできた無花果(イチジク)の実を故意に落とし、人々がその大きくて立派なのに驚くのを見て、これのできる土地はローマから海路三日の距離に過ぎないと述べたといわれる。更に激しかったのは、何ごとによらず意見を開陳した場合に必ず「カルタゴは消滅すべきだと思う」と言い添えた点である。……カトーにとってはバッカスの祭りに夢中になり、自己の権能の故にたびたび過ちを犯したローマ民衆の頭上に、カルタゴという昔から偉大で、現在は敗戦の不幸に懲りて冷静になった国家がのしかかっているのをそのままにし、ローマの覇権に対する外部からの恐怖を完全に除去することなく、国内での自らの過ちに対策を講じないでいるのはとんでもないと思われたのだった。<プルタルコス/村川堅太郎訳『プルタルコス英雄伝』中 ちくま学芸文庫 p.293-294>モンタネッリは、カトーの狙いは「カルタゴの再興を妨げることよりも、ギリシア征服の誘惑からローマの気をそらすことにあった」と言っている。カトーは「ギリシア人がその文化により我らを汚染するならば我らは破滅する」と考えていた。彼に言わせればギリシアの哲学などは無益な空論で、現実政治から人々の関心をそらすものだった。<モンタネッリ『ローマの歴史』p.149>
カトーはカルタゴ再征服を主張していたが、第3回ポエニ戦争が始まったのは彼が死んだ前149年のことだった。カトーはカルタゴ滅亡を見ずに死んだことになる。
なお、プルタルコスの『英雄伝』にはカトーが奴隷をどのように扱っていたか、興味深い話しが幾つか見ることができる。 → 奴隷(ローマ時代)の項を参照。
小カトー
このカトーの曾孫のカトー(前95~前46)は、カエサルと同時期のローマ共和政末期の政治家で哲学者。曾祖父を大カトーというのに対して、小カトーという。曾祖父と同じような共和政の伝統を固く守ろうとしてカエサルの独裁政治に徹底して反対した。前62年には護民官としてカエサルを批判したため、捕らえられて投獄されたこともあった。翌年許されたが、キプロス遠征を命じられ、ローマを離れた。前58年にキプロス併合に成功して帰国したが、カエサルは第1回三頭政治の妥協を成立させ、その年、ガリア遠征に出発した。クラッススの戦死で三頭政治が崩れ、前52年、ポンペイウスとカエサルの対立が鮮明になると、小カトーはポンペイウス支持に踏みきり、前49年にカエサルがルビコン川をわたってローマに進撃すると、ポンペイウスと共にギリシアに逃れた。前48年のファルサロスの戦いでポンペイウス軍が敗れると、別行動をとり、北アフリカに逃れた。ポンペイウスがエジプトで殺された後、カエサルはポンペイウス派の一掃を進め、小カトーのもとにも迫ってきたため、前46年にウティカで戦ったが敗れ、自殺した。