オクタウィアヌス
前1~後1世紀、カエサルの養子として成長し、アントニウスなどと争い、最終的に権力を獲得、前27年にアウグストゥスの称号を贈られてローマ帝国初代皇帝となった。 → アウグストゥスも参照
ローマ帝国初代の皇帝アウグストゥスとなった人物。オクタウィアヌス(オクタヴィアヌスとも表記する)は正式には Gaius Julius Caesar Octavianus (前63~前14年)。父は騎士階級(エクイテス)であったが、母がカエサルの姪(カエサルの姉の子)であったので養子となり、カエサルの死後、その部将であったアントニウスなどとの第2回三頭政治を前43年に成立させた後、エジプトの女王クレオパトラと結んだアントニヌスとアクティウムの海戦で戦い、勝利して権力を確立し、プトレマイオス朝エジプトを滅ぼし地中海世界を征服した。圧倒的な戦勝を背景に、前27年、アウグストゥスの称号を贈られ、ローマ帝国の初代皇帝となった。
青年オクタウィアヌス
カエサルは4度も妻を取りかえたが、クレオパトラとの間のカエサリオンを除いて、男子に恵まれなかったので、このオクタウィアヌスを養子にした。カエサルがヒスパニアのポンペイウスの遺児を征討する時に従軍し、働きが認められたという。彼は病弱でいつでも腹巻、襟巻、毛の帽子を離さず、薬を持ち歩いていたという。しかし意志力と決断力は優れており、カエサルはそこを見込んで後継者に指名したらしい。カエサルが暗殺された時はわずか17歳であったが、ただちにローマに駆けつけ、有力部将であったアントニウスに面会した。アントニウスは「坊や」といって取り合おうとしなかった。カエサル暗殺者のブルートゥスらを追ってギリシアにおもむいたが、その討伐はアントニウスの力が大きかった。しかし、アントニウスがカエサルと同じ独裁者になることを恐れたキケロなどの元老院議員はオクタウィアヌスを支持、両者はモデナで戦い、オクタウィアヌスが勝利した。第2回三頭政治
アントニウスは元老院の保守派を抑えるには対立を避けた方が良いと判断し、同じカエサルの部将だったレピドゥスの仲介でオクタウィアヌスと講和し、前43年第2回三頭政治(国家再建三人委員会)を成立させた。両者の関係を強めるため、オクタウィアヌスの姉のオクタウィアがアントニウスと結婚した。このとき、オクタウィアヌスはキケロの排除を同意したため、キケロはアントニウスによって殺害された。アントニウスは東方の治安維持、オクタウィアヌスはイタリア本土の復興を分担することにしたが、まもなくレピドゥスを失脚させ、腹心のアグリッパを用いてなおもシチリアなどで残るポンペイウス派の残党の討伐にあたった。アクティウムの海戦
アントニウスは東方遠征で名声を挙げようとしてパルティアと戦ったが敗れ、プトレマイオス朝エジプトと結ぼうとして女王クレオパトラと会見、その魅力に溺れてアレクサンドリアに居着いてしまった。ローマの実権を握ったオクタウィアヌスは、アントニウスがオクタウィアと離婚したことを期にクレオパトラ追討命令を発し、前31年、アントニウス・クレオパトラの連合軍をアクティウムの海戦で破り、ついで翌年アレクサンドリアを攻略してアントニウスとクレオパトラを自殺に追い込み、プトレマイオス朝を滅ぼした。(引用)クレオパトラの方は、凱旋式のために生かしておこうと強く願っていたので、彼女が蝮(マムシ)に噛まれて死んだと推定されたとき、蛇使いを彼女のところへ送り、毒汁を吸いとらせることさえした。二人に敬意を表して同じ墓に埋葬することにし、二人が工事を始めていた墓所を完成するよう命じた。<スエトニウス/国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上 岩波文庫 p.111>オクタウィアヌスはクレオパトラがカエサルの子だと公言していたカエサリオンを亡命先から連れ戻して処刑した。しかし、アントニウスとクレオパトラの間の三人の子は姉でアントニウスの前妻のオクタウィアに引き取らせた。
Episode オクタウィアヌスの風貌
オクタウィアヌス(=アウグストゥス)と同時代のローマの歴史家スエトニウスは『ローマ皇帝伝』でその業績を称揚しながら、続けてその私生活を、いささか暴露気味の筆致で伝えている。それによると、彼の風貌は次のようなものだった。(引用)容姿には気品があり、生涯のいかなる時期でも、美しく人目を引いた。最も彼には辺幅を飾る気持ちなどさらになかったのであるが、頭髪を整えるにもたいへん無頓着で、気忙しく一度に何人もの理髪師に身を任せ、一方で髪を刈らせ、他方で髯(ひげ)を剃らせ、そうしている間も、何かを読み、書きさえしていたほどである。顔の表情は話していても黙っていても、非常に穏やかに澄んでいた……。彼の目は明るく清(す)み、炯々と輝いていた。……このあと、延々とその持病についての記述があるが省略。
しかし年老いてから左目の視力が衰え、歯はまばらで細くなり、歯石でざらざらしていた。髪は淡い金色で軽く波うっていた。両方の眉は繋がり、耳はほどよい大きさで、鼻柱は先端で心持ち隆起し、その底辺が内側にやや曲がっていた。肌は浅黒くもなく色白でもなくその中間で、背丈は低かった。……この短躯も、手足の均斉のとれた美しさで、目立たなかった。じっさい傍らに誰か背の高い人が立って比較されない限り、わからないくらいであった。伝えるところによると、体は肝斑(しみ)だらけで、胸から腹にかけて生まれつきの母斑(あざ)が、その形も並び方も数も天空の大熊座そっくりに散らばっていたと。そればかりでなく、体が痒いためと、垢擦(あかす)り器でいつも烈しくこすっていたため、皮膚のあちこちが、瘡蓋(かさぶた)のように厚くなっていたと。……<スエトニウス/国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上 岩波文庫 p.176-179>
アウグストゥスの尊称を得る
権力を掌握したオクタウィアヌスは、五十万の軍を二十万に削減、三十万を帰郷させて土地を買わせ農業に就かせた。また国家に対する私人の負債を帳消しにし、公共事業を興し、官僚組織を整備し、財政を再建させた。彼は連続十三回、執政官に当選、元老院を完全に抑えることができた。そのような情勢を背景に、前27年、アウグストゥスの称号を与えられ、事実上の最初のローマ皇帝となり、「ローマ帝国」を創始した。 → 皇帝としてのオクタウィアヌスは、アウグストゥスの項を参照。 → 元首政(プリンキパトゥス)Episode 譲り合いの精神で生まれた?ローマ帝政
(引用)前27年、(オクタウィアヌスは)突然全権力を元老院に返還、共和政復帰を宣言、引退して一私人にもどると言った。まだ三十五歳、耳なれぬ「第一人者(プリンケプス)」という称号しか受けていない。元老院はそれにこたえて自分達自身も総辞職し、全権力をあらためてオクタウィアヌスに委譲し、国の全権を握って頂きたいと懇請、アウグストゥスすなわち「尊敬すべき人」という称号を奉る。オクタウィアヌスはいやいやながらという顔つきでこの懇請を容れた。両側で念入りに演出したこの芝居は、今や保守共和派の反抗が終結したことを天下に宣明した。誇り高い元老院も、混乱よりは独裁を選んだ。<モンタネッリ/藤沢道郎訳『ローマの歴史』中公文庫 p.242>
オクタウィアヌスの権力掌握時期
オクタウィアヌスが権力を獲得した経緯は次のようにまとめることができる。そのいつの時期をもって権力掌握とするかについては説が分かれている。一般的には前27年のアウグストゥスの称号を得た時を帝政の始まりとしているが、こと単純ではなさそうである。- 前30年
- エジプトのプトレマイオス朝とアントニウスを破り、ローマに凱旋。その前後から「インペラトル」(凱旋将軍、最高司令官の意味)と言われる。
- 前29年
- 元老院から「プリンケプス」(市民の中の第一人者)の称号を贈られる。
- 前27年
- 内乱時の非常大権を元老院に返し、共和政再興への意志表示を行う。それを讃えて元老院は「アウグストゥス」(尊厳のある者)の称号を贈る。
- 同 年
- 元老院と民会の決議により、イスパニア・ガリア・シリア・エジプトの軍隊命令権を10年間付与される。
- 同時に属州総督(プロコンスル)命令権を元老院と分けて行使することを認められる。
- 同 年
- 護民官職権を付与される。
- 前19年
- コンスル命令権を付与される。
- 前12年
- 最高司祭長(大神祇官)となる。
- 前2年
- 「祖国の父」の名誉称号を贈られる。