印刷 | 通常画面に戻る |

騎士/エクイテス

古代ローマ共和制時代末期に登場した、従来の貴族・新貴族からなる元老院議員層に対し、徴税請負人などとなって富を蓄えた新興富裕層を騎士(エクイテス)といった。彼らは平民派の基盤となり、さらにローマ帝政の元首政を支える存在となった。

 ローマ共和政の時代に、前3世紀末ごろからあらわれた富裕市民層を、元老院議員などの地位を独占していた貴族(パトリキ)と区別して騎士(エクイテス)といった。本来は騎馬で軍務に従事する兵士を意味しており、馬を養うことのできる富裕者であったことから、重装歩兵である平民に対して貴族を意味していたが、前3世紀末に元老院議員となる層と区別され、その下層に位置づけられる層を意味するようになった。

徴税請負人として富を築く

 彼らは従来の貴族と、前4世紀ごろから登場した新貴族(ノビレス)が元老院議員として既得権を持っていたのに対して、前3世紀のポエニ戦争によって増加しはじめた属州徴税請負人となったり、商業に従事したりしながら富を蓄え、騎士階級を形成させた。

元老院議員身分と騎士身分

 ローマ共和政末期の前3世紀の終わりごろ、従来の元老院議員(このころはノビレスがその多数を占めていた)に次ぐ支配階級として騎士身分(階級とも言える)が成立した。その前提は、前218年の法律で、元老院議員及びその息子は商業に従事することが禁止されたことである。そのため騎兵に登録されながら元老院議員になれないでいた層の者が、商業の分野に進出するようになった。彼らはその富をもとに属州総督(彼らは元老院議員身分に属していた)に代わって徴税請負人となり、徴税や公共事業を請け負い、さらに富を蓄えるようになった。ただし、元老院議員と騎士身分はそれぞれ総督と徴税請負人として属州を収奪し、その富を分け合ったという点では同じ支配者層に属しており、階級的利害関係で対立する関係ではない。
徴税を請負制にした理由 属州の徴税や公共事業という国家事業を請負制にしなければならなかったのは、都市国家であったローマは市民が交替で行政にあたる原則だったので職業的な官僚は存在しなかったためである。官僚制をもたないローマが広大な属州を獲得していったとき、その統治は経済的に力のある有力者に請負ってもうらうことが必要だった。つまり、都市共同体国家から、領域的国家に転化した矛盾から生まれたのが、徴税請負制度であり、その制度に乗じて急成長したのが騎士身分(階級)だった。

平民派の基盤

 彼らは共和政末期には民会を拠点とした党派の平民派の支持基盤となり、元老院を拠点とした閥族派と対立するようになった。彼らの存在は、前1世紀の内乱の1世紀の過程で重要性を持つようになり、初代皇帝アウグストゥス以来のローマ帝国の皇帝の元首政の統治も騎士階級を基盤とし、彼らから役人や軍人に登用されるものが多かった。
注意 古代ローマの騎士と中世の騎士の区別 古代ローマの「騎士=エクイテス」は騎馬の兵士という軍事的な本来の意味は無くなっており、一つの政治的階級を意味していた存在であり、中世ヨーロッパの騎士の概念とは違うので注意を要する。中世の騎士(英語でKnight、独語でRitter、仏語でChevalier)は封建領主層が騎乗戦士として主従関係を結び、上級者から爵位を授けられた身分を意味している。

参考 ローマの騎士階級の理解のために

 「騎士=エクイテス」は、ローマの歴史のなかでも理解が難しいところと思われるので、ややくわしくその意味を学んでみよう。以下、弓削達『ローマ帝国論』を主に参照した。
本来の騎士の意味 伝承によると王政時代のセルウィス=トゥリウス王が前577年に定めた民会の一つ兵員会は、全市民を財産額によって騎士と歩兵に分け、騎士は18のケントゥリア(百人隊)に編成、歩兵は5等級と工兵・器楽兵・等級外に分け175のケントゥリアを割り振った。従って1800人が騎士の定数とされ、彼らは上級市民として官給馬を保有した。ケントゥリアは兵員会の投票単位であり、総数193となる。投票は騎士から始まり等級順に行われた。後に騎士と言いながらも騎乗は必ずしも義務とされず、一定の財産評価(ケンスス)を受けたものが騎士とされた。騎士の中から軍団参謀将校が選ばれ、さらに財務官・護民官・高級政務官に選ばれると、元老院議員になることもあった。このように、グラックス以前は元老院議員も18ケントゥリアに属する騎士であった。<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.93>
元老院と騎士の分離 騎士と元老院議員とは元来区別できないものであったが、前218年にクラウディウス法で、元老院議員および議員であったものの息子に300アンフォラ以上の船舶の所有を禁じた。これは自家生産物を運ぶ以上の物資を輸送してはいけないと言うことであるので、実質的に海上貿易を禁じることを意味した。これによって元老院議員は海上貿易に従事できなくなったため、商業活動で富を得ようとするものは元老院議員になれなくなった。こうして元老院議員への上昇を望まない騎士層の中から次第に大商人が現れていった。<弓削達『同上』 p.94>
騎士の大商人への転進 富を蓄えた騎士の中には、第2回ポエニ戦争(218-201年) の頃から、建築・土木・食糧・軍衣などの国家事業の請負によって富を得るようになった。さらに、前2世紀にローマの征服戦争が進行する過程で本格化し、属州総督にかわって各種の税の徴収、塩の専売、鉱山採掘権などを請け負う徴税請負人になっていった。このようにして騎士は請負契約によって資本家層に転進したが、元老院議員は請負契約の当事者にはなれず(出資者にはなれた)、その経済基盤は大土地所有者として奴隷制農園経営(ラティフンディア)を主とするようになっていく。<弓削達『同上』 p.95>
騎士と平民派 騎士は、いわば新興勢力であり、徴税請負人など様々な請負事業で富を蓄え、貴族身分には禁じられていた高利貸しや海外取引などでさらに力を付け、政治的には改革派である平民派を支援した人々である。彼らの台頭は、元老院に拠点を置き既得権を守ろうとする貴族たちの支持を受けた閥族派との対立をもたらし、「内乱の1世紀」の争乱の背景となった。この時期に第1回三頭政治を行った三人のうち、クラッススポンペイウスは騎士階級の出身で、軍人として活躍しただけでなく、前者は富豪でもあった。また雄弁家として知られ、カエサルの独裁政治を批判したキケロも騎士の出身であった。彼らは大土地経営(ラティフンディア)においてもぶどう・オリーブの栽培を奴隷労働で行うようになった。

ローマ元首政と騎士階級

 ローマ帝国の時代には、世襲の元老院議員である名門の貴族たちが第一階級であったのに対して、騎士は第二階級を形成した。前27年にアウグストゥスが皇帝となり元首政を開始すると、元首が本国と属州の広大な範囲を統治するために、行政機構と官僚組織が整備されていった。そのさい、増大した官僚のポストは元老院議員だけでは不足するようになり、いわば下級貴族である騎士階級から補充するようになった。
 騎士階級は下級貴族階級と言っても世襲の閉ざされた身分ではなく、一定の財産と名声のあるローマ市民であれば、名門出身でなくとも騎士になることができた。以前はイタリア出身者に限定されていたが、アウグストゥスは属州出身者でも可能にしたので、数千に上る大集団になった。彼らはまず軍隊を経験して、その中で活躍いちじるしいものは様々な責任ある役職に登用された。
 アウグストゥスは前22年、都の食糧管理事業にあたることとなったとき、食糧供与管理官二名を元老院階級から選んだほかに、それとは別に自由市場から小麦の買い上げにあたる食糧供給管理官二名を創設して騎士身分から選任した。プラエフェクトゥスと称された管理官はこのほかにも、警察に相当する都警隊、消防に相当する夜警隊、親衛隊、艦隊など多くの組織の長として騎士階級のなかから任命した。これらの管理官はその権限は法律によって保障されているのではなく、あくまでアウグストゥスのもつ上級命令権を根拠とした、その代理人として職務を執行した。その活躍次第ではより重要な役職に就任し、元老院議員の選出されることもあった。事実、これによってイタリア出身者に限られていた元老院議員に、属州出身の騎士身分出身者が抜擢されるようになった。アウグストゥスとその後継者たちの権力拡大は、行政制度の確立及び官僚組織の充実と軌を一にしており、それを支えたのが騎士階級という人的資源であった。<青柳正規『ローマ帝国』2004 岩波ジュニア新書 p.86-88>
 こうして騎士階級は官僚(役人)や軍人として皇帝政治を支える存在となってゆき、形骸化した元老院身分に対して、実質的な支配階級となっていった。騎士階級の出身で軍人として活躍し、ネロ帝が悪政のために元老院や軍隊から見放されて自殺した後、軍の支持を受けて皇帝となったのがウェスパシアヌスである。