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解放奴隷(ローマ)

古代ローマで、一定の条件で奴隷から解放され、市民権を得た自由人。帝政期に増加した。

ローマ市民社会の最大の特徴

 古代ローマにおいては、奴隷が「正当かつ合法的な解放」によってローマ市民となることができた。おなじく多くの奴隷が存在した古代ギリシアのアテネでは、解放された奴隷は在留外人(メトイコイ)となるだけで、市民権は認められなかったから、ローマの市民社会の最大の特徴と言うことができる。
 奴隷解放の一定の手続きには、「人口と財産調査による解放」、「杖による解放」、「遺言による解放」の三つのケースがあった。
  • 人口と財産調査による解放 5年に一度、監察官が行う市民の人口と財産の調査に際して、奴隷所有者が、奴隷がもともと自由人であったことを申告することによって解放された。
  • 杖による解放 執政官、法務官、属州総督などの公職者の面前に、奴隷主と奴隷、奴隷がもともと自由人であったことを証言する原告役の市民の三者で出頭し、原告役の市民が奴隷がもともと自由人であったことを証言して奴隷の体を杖でさわり、奴隷主がそれに抗弁しない(異議を申し立てない)と、公職者は奴隷の自由身分の回復を宣言して、奴隷は解放される。
  • 遺言による解放 奴隷主が遺言で奴隷解放の意思を表明する。主人が奴隷の忠勤に対する報償として解放を認める、もっとも一般的な方法であった。主人の相続人に一定の金銭を払うことなどの条件をつけることができた。
 解放奴隷の解放条件やその地位に関しては、帝政成立期のアウグストゥス帝とティベリウス帝の時代に細かい規定が設けられた。解放奴隷は自由人となり、ローマ市民権が与えられ、民会に出席し、公職者の選挙にも参加できた。しかし、ローマの市民社会を規制するローマ市民法では、人間は自由人であるか奴隷であるかでまず二分され、自由人は出生自由人であるか解放奴隷であるかでさらに二分された。また出生自由人には、元老院議員とそれ以外の市民が厳然と区別され、元老院議員に次ぐ階層は騎士階級とされた。なお解放奴隷の中には、条件が十分ではなく、自由人となったが市民権は認められない場合もあった。

富裕な解放奴隷

 帝政成立後、100年ほど経った頃から、解放奴隷の中にも富裕な財産をもつものが現れた。解放奴隷に対してはもとの奴隷主が解放後も一定の保護権を持っていたが、富裕な財産をもつ解放奴隷は旧奴隷主の保護から離れて、中には傍若無人に振る舞うものも現れ、元老院議員たちを憤慨させることがあった。帝政ローマ時代にペトロニウスという人が書いたと言われている『サテュリコン』は、そのような富裕な解放奴隷が登場する一種の悪漢小説で、帝政初期のローマの風俗が描かれており、その中の一つに年老いた解放奴隷トリマルキオの語る成功談がある。解放奴隷は元老院議員や騎士身分にはなれず、せいぜい下級官吏止まりだったから、もっぱら商売や投資で財産を殖やした。

コロヌスへ

 ローマの支配階級であった元老院議員たちの大土地所有であるラティフンディアでも奴隷制生産は効率が悪く、また奴隷の供給も減少したため、2紀ごろから解放奴隷を小作人として土地を耕作させ、小作料を取るようになった。このような小作人をコロヌスといい、そのような生産方式をコロナトゥスといった。コロヌスは奴隷とは異なり自由人ではあったが、小作地を離れることはできず、中世の農奴の原型となった。
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書籍案内

島田誠
『コロッセウムからよむ
ローマ帝国』
1999 講談社選書メチエ