死海文書
パレスチナの死海のほとりの洞窟から偶然発見された、前2~後1世紀のユダヤ教クムラン教団の古文書類。最古の旧約聖書のヘブライ語写本を含み、世界を驚かせた。
Episode 羊飼いの少年が大発見
死海文書の入っていた壺と文書の一部
『聖書事典』p.1019 より拝借
ユダヤ教クムラン教団
発見当時はイスラエル建国直後で、ヨルダン川西岸であるこの地域はまだヨルダン領であった。まもなく中東戦争が勃発、激しい戦闘地域となったが、合間に国際的な本格的調査が始まった。近くの崖面からいくつもの洞窟が見つかり、ヘブライ語やアラム語で書かれた文書が発見され、さらに崖の上の平地からは修道院風の建物群の遺跡が発掘された。これらの洞窟や遺跡から出土した文書は「死海文書」といわれ、それまで旧約聖書でしか知られなかったイエスの時代の生の史料であったことから、世界的な大発見とされ、いわゆる「聖書考古学」が世界の注目を浴びることになった。その後の研究で明らかになったことは、この遺跡は、イエス時代のユダヤ教の一分派で最も厳格な戒律を守っていたエッセネ派の教団の修業の場であった、ということであった。文書が書かれたのは前2世紀のユダ王国のハスモン朝の時代から、紀元後1世紀のローマがパレスチナに侵攻したユダヤ戦争の最中の63年ごろまでであった。68~70年にイェルサレムはローマ軍の総攻撃を受けて陥落しているので、恐らく、クムラン教団のユダヤ人が修道院を焼き払い、経典類は崖の洞窟に隠したのであろうと、考えられた。
最古の旧約聖書写本
洞窟の中の陶製の壺にに納められていた古文書は、油に浸した亜麻布か、瀝青を塗った亜麻布が巻き付けられ、大気と湿気から守られ、羊飼いの少年がはぐれた羊を追いかけて崖に登った偶然から、この貴重な資料がが2000年ぶりに日の目を見たのだった。死海文書はさまざまな研究が行われ、多くはクムラン教団(宗団)の遺跡出あることでは一致しているが、その解釈はまだ定まっていない。文書によると教団は「議の教師」とよぶ救世主に率いられて、厳しい戒律を守り、弾圧を受けながら信仰を守ったという。研究者の中には、この「義の教師」の存在がイエス=キリストの原型ではないかと考えているものも在る。しかし、クムラン教団とイエス=キリストの関係にはまだ定説はない。 → キリスト教