イェルサレム(エルサレム)
パレスチナの中心都市で、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の聖地。現在はイスラエルの実効支配下にあり、首都機能が置かれている。各国は大使館をテルアビブに置いていたが、2018年、トランプ大統領がアメリカ大使館をイェルサレムに移したので、アラブの反発が強まっている。
イェルサレム(エルサレム) Google Map
同時にイェルサレムはキリスト教ではイエス=キリストが布教した聖地であってゆかりの聖墳墓教会が残り、イスラーム教ではムハンマドが昇天したと伝えられる地としていずれも聖地とされている。つまり「三大啓示宗教(セム的唯一神教とも)にとって共通の聖域として古来親しまれてきたイェルサレムは、イスラエル人、パレスチナ人それぞれの拠点でもある。」<高橋正男『物語イスラエルの歴史』2008 中公新書 p.2>
イェルサレムの統治者は、ヘブライ王国・ユダ王国の後、新バビロニア・アケメネス朝ペルシア・セレウコス朝シリア・ハスモン朝・ローマ帝国・ビザンツ帝国・イスラーム諸王朝・十字軍国家・マムルーク朝・オスマン帝国と変遷し、ユダヤ人のシオニズム運動が高まるなか、第一次世界大戦後はイギリスの委任統治下に置かれた。
第二次世界大戦後、パレスチナはアラブ人居住者とユダヤ人入植の間の衝突が深刻化し、パレスチナ問題が発生した。新設の国際連合がパレスチナ分割決議で解決を図り、イェルサレムは国連の管理下に置くととした。分割案を受け入れたユダヤ人側は1948年5月、イスラエルの独立を宣言、それを認めないアラブ諸国との間でパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。アメリカなどの支援で戦争に勝利したイスラエルは1950年にイェルサレムを首都とすることを宣言した。
パレスチナ戦争(第1次中東戦争)の停戦協定によって、イェルサレムは旧市街を含む東地区はヨルダン領、西地区をイスラエル領とされた。イェルサレム自体が東西に分割されたが、それは問題をさらに深刻にした。1967年の第3次中東戦争でイスラエル軍が東地区を占領して全市を押さえ、事実上の首都機能を持たせている。イェルサレムは21世紀においても、宗教的な対立だけでなく、民族的・政治的な対立を抱えており、国際政治上の最も先鋭な焦点として続いている。
- (1)古代のイェルサレム
- (2)イスラーム支配下のイェルサレム
- (3) 十字軍時代のイェルサレム
- (4) マムルーク朝・オスマン帝国の支配
- (5) 近・現代のイェルサレム
- (6) イェルサレム首都問題
古代のイェルサレム
ヘブライ王国の都
前997年頃、ヘブライ王国(イスラエル)のダヴィデ王によって都として建設された。次のソロモン王の時、ヤハウェ神殿が建てられ(第一神殿)、ユダヤ教の聖地として栄えた。ヘブライ王国分裂後はユダ王国の都となり、アッシリアのセンナケリブ王の攻撃を受けたが陥落しなかった。しかし、前586年に新バビロニアのネブカドネザル王によって第一神殿は破壊された。その時、ユダヤ人がバビロン捕囚の苦難を受け、前538年にアケメネス朝ペルシア帝国によって解放されてイェルサレムに戻り、ヤハウェ神殿を再建した(第二神殿)。
ローマによる破壊
ヘレニズム時代にはセレウコス朝シリアの支配を受けたが前166年からのマカベア戦争で自治を認められ、ハスモン朝が成立した。しかし、前63年にハスモン朝がローマに滅ぼされてその支配下に入り、ローマの傀儡政権ヘロデ王が君臨した。イエスの出現 ヘロデ王の死後、ローマは6年にパレスチナを属州として直接支配し、総督を派遣して統治するようにした。ローマ帝国の統治もとで、イェルサレム神殿の祭司によるユダヤ教の儀礼化が進み、それに反発する預言者の運動の中から、イエスが登場した。イエスはローマの支配と神殿を冒涜したという理由で30年に処刑された。
ローマとの戦争 その後、ローマの統治に対するユダヤ人の反発は強まっていった。66年、イェルサレムで反ローマ闘争が起こるとにはローマ軍はイェルサレムに侵攻し、第1次ユダヤ戦争が始まった。ローマ軍は抵抗するユダヤ人を排除しながら、イェルサレムを占領し70年にヤハウェ神殿(第二神殿)を破壊した。ヤハウェ神殿はその後は再建されることがなかった。皇帝ティトウスは勝利を記念してローマに凱旋門を建てた。
ハドリアヌス帝による破壊 ローマ皇帝ハドリアヌスは、130年、属州ユダヤエを視察、その時にイェルサレムに退役兵のための植民市を建設した。このイェルサレムを抹消する措置に対してユダヤ人は再び蜂起し、131年に第2次ユダヤ戦争(~135年)が起こった。カリスマ的な指導者シモン・ベン・コシバに率いられたユダヤ人はゲリラ戦を展開して抵抗したが、ハドリアヌスは自らローマ軍を率いて鎮圧にあたり、情け容赦ない報復措置をとった。一説によると、50の町と985の村が破壊され、50万人をこえるユダヤ人が虐殺されたという。
イェルサレムの広場にはローマの神であるユピテル神殿が建てられていたが、反乱を鎮圧したハドリアヌスは、さらにかつてヤハウェ神殿が建っていた丘に自らの騎馬像を建てた。こうしてユピテル神殿とハドリアヌス騎馬像の二体がイェルサレムの町を見下ろすこととなった(後に広場には聖墳墓教会が建てられる)。この町は新たにコロニア・アエリア・カピトリナ(アエリアはハドリアヌスの氏族名)と名付けられ、ユダヤ人は市中および郊外に居を定めることを厳しく禁止された。
(引用)新たな名前をつけられたイェルサレムは、この町をもっとも神聖視する人々に対して門を閉ざしたのである。こうしてユダヤ人は、永遠に流浪の民となることを運命づけられた。人々を威圧する記念物がいくつも新しく建てられ、大規模に改造されたアエリア・カピトリナは、完全にハドリアヌス治下のローマ帝国の一部と化した。この町の反乱の歴史は、ユダヤ人自身と同じく、徹底的に除去されたのだった。 → ユダヤ人の離散 嘆きの壁
イスラーム支配下のイェルサレム
キリスト教・イスラーム教の聖地となる
4世紀のコンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認してイェルサレムに教会を建ててからは、キリスト教の聖地とされ、五本山の一つとなる。ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の管理下に置かれていたが、638年以降はイスラームの支配を受け、イスラームでも教祖ムハンマドの昇天した地としてメッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とされ、重視されている。はじめはヨーロッパのキリスト教徒も巡礼としてやって来ていたが、セルジューク朝の進出によってキリスト教徒の巡礼が阻害されるようになり、十字軍運動が開始される。それ以降、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のそれぞれの聖地として、三つの勢力が角逐する場所となっている。ムハンマドの昇天伝承
(引用)イスラームの伝承によれば、619年、ムハンマドは人生でもっとも特筆すべき出来事を経験した。彼はカーバの近くで眠っているところを天使ガブリエルに起こされた。ガブリエルに導かれて、彼はエルサレムへ旅した。そして、ある隆起した岩の上から天へと昇った。そこでアブラハムやイエスやモーゼなど偉大な預言者に会ったと言われている。この旅のクライマックスは、神のまえに立ったことである。イスラーム教徒にとっては、この旅はムハンマドの精神がいかに深遠であるかを改めて証明する奇跡であった。<ゴードン『イスラム教』シリーズ世界の宗教 1994 青土社 p.31>
イスラーム支配下に入る
ムハンマドが632年になくなった後の正統カリフ時代にジハード(聖戦)が次々と展開された。第2代のカリフのウマルの時、シリアに進出し、ビザンツ帝国軍を撃退しながら、イェルサレムに迫った。637年に始まった長い包囲戦の結果、ビザンツ軍は撤退し、イェルサレムはウマルに講和を申し入れた。638年2月、イェルサレムに入ったウマルは住民の安全を保障し、キリスト教の聖墳墓教会の存在も認めるという寛大な措置を執り、イェルサレムは両宗教の併存する都市となった(イェルサレムの和約)。イェルサレムの和約 ビザンツ帝国が支配していたイェルサレムは、ついに638年、イスラーム軍に降伏した。イェルサレムのビザンツ政府を代表するギリシア正教の大主教ソフロニオスは、降伏をカリフのウマルに申し出ることを希望し、ウマルはダマスクスからやってきて無血入城して大主教の降伏を受け入れた。大主教が教会の安全保障を要求したのに対し、ウマルは教会と十字架を破壊しないこと、儀式と財産を保障することを約束、ビザンツ人が出て行った後のイェルサレム市民は、税(ジズヤ)を納めれば信仰を続けてよいと約束した。この「イェルサレムの和約」は「ウマル憲章」ともいわれ、キリスト教徒が税を納めることでムスリムの保護民(ズィンミー)としてその信仰を継続できるとという原則が示された。またこのとき、ウマルは聖墳墓教会で祈ることを勧められたが断り、近くの階段でアラーへの祈りを捧げた。このことから、イェルサレムは教会とモスクが併存するが許されることになった。<笈川博一『物語エルサレムの歴史』p.128/小杉泰『イスラーム帝国のジハード』興亡の世界史 p.157-p.159 などによる>
「イェルサレムの和約」は一般的な用語集・事典には見当たらないが、Wikipedia 「ウマル憲章」の項に簡単な説明がある。またその条文はWikisource の Pact of Umar で全文が読める。なお、ムハンマドの時代にもメディナの住民と結んだ「メディナ憲章」があり、征服地の市民の保護と自治を約束している。内容は共通しており、正統カリフ時代のウマルのもとで進められた征服活動でも、同じ一神教信仰であるキリスト教徒を啓典の民として保護するズィンミーの制度が形成されていったことを示している。
Episode カリフの寛容さ
ウマルは有名な白いラクダに乗ってイェルサレムに入城すると、迎えに出てきたギリシア正教会の総主教に対し、全住民の生命と財産の尊重を明確に伝え、その上でキリスト教の聖地を訪ねた。総主教と供に聖墳墓教会をおとずれたとき、ちょうど祈りの時間となったので、総主教にどこで祈ったらいいか訪ねた。総主教は「どうぞここで」といったがウマルは「ここで私が祈ったらムスリムは明日もここで祈るでしょう」といって絨毯を抱えて外に出、そこにひざまずいた。その場所に後にウマルのモスクが建てられた。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.85(現在はちくま学芸文庫版)>岩のドーム
イェルサレムのムハンマドの昇天したと伝えられる岩の上に建てられた「ウマルのモスク」は、後のウマイヤ朝時代の692年に、カリフのアブド=アルマリクの命令によって岩のドームといわれる新たなモスクとして建設された。「岩のドーム」は現在もイェルサレム旧市街の一角に黄金の屋根を輝かしており、イスラーム教徒の聖地とされているが、現在イェルサレムを実効支配しているイスラエル政府がたびたび侵犯し、両者の感情的対立を刺激し紛争になっている。十字軍時代のイェルサレム
巡礼ブーム
正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の時代を通じ、イェルサレムはキリスト教・ユダヤ教・イスラーム教いずれもの聖地としてそれぞれの信徒が共存していた。ヨーロッパからの巡礼として多くのキリスト教徒が訪れ、また聖遺物を探して持ち帰るというのもブームとなっていた。セルジューク朝の時代になってもそれは変わらなかったが、聖地回復を提唱したウルバヌス2世によって始められた十字軍運動では、巡礼に対する妨害の排除もその口実とされた。十字軍の侵攻・占領
1096年に開始された第1回十字軍は、小アジアからシリアに入り、エデッサ、アンティオキアなどを占領し、イェルサレムに達した。この時イェルサレムを支配していたのは1098年7月にセルジューク朝からこの地を奪ったファーティマ朝であったが、長期の包囲戦の結果、ついに1099年7月15日に陥落した。その時、岩のドームなどのモスクに避難した住民が十字軍によって多数虐殺され、また略奪がおこなわれた。イスラーム教徒だけでなく、ユダヤ教徒やアルメニア教会派などの東方教会の信者も殺されたり捕らえられて奴隷にされたりした。十字軍はイェルサレムを占領し、十字軍指揮官ゴドフロワを国王とするイェルサレム王国を建国した。これは十字軍諸侯を領主として周辺に封じた封建国家であり、十字軍国家と言われ、西アジアのイスラーム圏の中のキリスト教国として存在し、一時はパレスチナからシリアに及ぶ範囲を支配した。
アラブの見た十字軍
(引用)フランク(アラブ側は十字軍をフランク人が起こしたと考えていた)が四十日間の攻囲の果てに聖都を奪ったのは、史実の上ではイスラム暦492年シャアバン月の22日金曜日、西暦でいえば、1099年7月15日のことであった。国を追われてきた人々は今もそのことを話すたびに体は震え、目は一点を見つめて、あたかも、鎧を着た金髪の武者が路上にあふれ、剣を振るって男女、子どもののどをかっ切り、家や寺院(モスク)を荒らし回っているのを、まだ目の前で見ているようだ。
二日後、虐殺が終わった時に、城壁内にムスリムの姿は一人もなかった。中には混乱にまぎれ、寄せ手が押し破った城門をくぐり抜け、脱出した者もわずかながらいたが、他は何千という死体となって家の戸口や寺院の周辺にできた血の海の中に投げ出されていた。この中には導師(イマーム)や法学者(ウラマー)、神秘主義派(スーフィー)の苦行僧も多数いたが、彼らは聖地で敬虔な隠遁生活を送るために故国を離れてやってきた人々であった。最後まで生き残った者には最悪の仕事が与えられる。死体を背負って運び、広い空き地に埋葬もせず、墓もない所にただ山積みにしてから焼き払うのだ。その後で彼らもまた殺されるか、奴隷として売り払われた。
エルサレムのユダヤ人の運命も悲惨きわまりないものであった。戦いが始まって数時間、一部は自分たちの居住地域、すなわち市の北側のユダヤ区の防衛に加わった。しかし、家々を取り囲んでいる壁の一部が崩され、金髪の騎士が通りに侵入し始めると、彼らは狂乱状態に陥った。居住区の全員が、しきたりどおりシナゴーグ(ユダヤ教の寺院)に集まり、祈りを捧げる。するとフランクは出口を全部ふさぎ、次いで、周りに薪を積み上げ、火を放つ。脱出を試みた者は近くの路地でとどめを刺され、他は焼き殺された。・・・<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.5-6(現在はちくま学芸文庫版)>
サラーフ=アッディーンのイェルサレム奪回
1187年にアイユーブ朝のサラーフ=アッディーン(サラディン)はヒッティーンの戦いでイェルサレム王国軍を破り、その後にイェルサレムを包囲し、占領した。そのときは、十字軍が占領した時と違って、虐殺、略奪は起きなかった。Episode サラーフ=アッディーンのイェルサレム入城
(引用)1187年10月2日、金曜日。イスラム暦では583年ラジャブ月27日。それはムスリムが、エルサレムへの預言者の夜の旅を祝う日である。サラディン(サラーフ=アッディーン)は聖地への堂々たる入場を行った。部将や兵士には厳しい命令が出される。フランクであろうが中東の人であろうが、キリスト教徒に対して指を触れてはならぬと。実際に、殺人も略奪も行われなかった。何人かの狂信者たちが、かつてフランクが行った暴虐への報復のしるしとして、聖墳墓教会を破壊すべしと主張したが、サラディンは彼らをたしなめた。それどころか、礼拝所に対する警備を強化し、フランクでも望むときはいつでも巡礼に来ることができると発表した。もちろん、岩のドームの頂上に立っていたフランクの十字架は引き下ろされた。教会に変えられていたアル=アクサのモスクは、壁にバラ水をふりまいた後、ムスリムの礼拝所に戻った。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.301>サラーフ=アッディーンは、イェルサレムのキリスト教徒に身代金を支払った上での立ち退きを認めた。豊かな人々は家財を売り払って身代金を工面した。貧しい人々への身代金免除の要請があり、サラーフ=アッディーンはそれを認めた。次いでスルタンは自分自身の考えから老齢者は無償で立ち退きが許され、捕虜の中の家長は釈放し、フランクの未亡人および孤児には贈り物を添えた上で立ち退かせた。
第3回十字軍
イェルサレムの再占領を目指して、第3回十字軍が起こされ、アッコンを占領したが、イェルサレム再占領には失敗した。その主力となったイギリスのリチャード1世は1192年にサラーフ=アッディーンと講和し、キリスト教徒の聖地巡礼の保護を条件として撤退した。フリードリヒ2世の入城
サラーフ=アッディーンによってイェルサレムを奪還したアイユーブ朝であったが、その死後、後継者たちは、カイロとダマスクスで反目し合うようになり、内紛が生じた。それに乗じて神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世は1228年に第5回十字軍を起こした。フリードリヒ2世はアイユーブ朝の内紛に乗じてカイロと交渉し、1229年にイェルサレムの支配権を認めさせ、入城した。マムルーク朝・オスマン帝国の支配のイェルサレム
聖地管理問題
16世紀のオスマン帝国、スレイマン1世の時に、イェルサレムの聖地管理権をローマ教皇の代理としてフランス王に与えた。その後のオスマン帝国の弱体化に伴い、聖地管理権問題はヨーロッパのキリスト教国の介入の口実となっていく。フランス革命が起きるとロシアがギリシア正教会信者にとってもイェルサレムは聖地であるので、権利を主張してオスマン帝国から認められた。次にフランスの権威をカトリック教会と結びつくことで回復しようとしたナポレオン3世はオスマン帝国に対して聖地管理権の返還を要求、それはフランスとロシアの対立を呼び、1853~56年のクリミア戦争の発端となった。近・現代のイェルサレム
イェルサレムの旧市街
イェルサレムの旧市街(東イェルサレム)は16世紀前半にオスマン帝国によって再築造された城壁にとりかこまれている。その内部には各宗派、各教派ごとに5つの居住区に分かれている。すなわち、神殿の丘(旧市街の南東)・ユダヤ人地区(神殿の丘の西壁の西側)・キリスト教徒地区(西)・イスラーム教徒地区(北東)・アルメニア正教地区(南西)の5地区である。キリスト教徒地区にはキリストが十字架にかけられて処刑されたゴルゴタの丘に聖墳墓教会が建てられている。「神殿の丘」はかつてヘブライ王国時代のヤハウェ神殿があったところで、それが破壊された跡に建てられた「岩のドーム」はムハンマドの昇天したところと言い伝えられている。ヤハウェ神殿跡の西側にあたり、ユダヤ人地区に面している壁が有名な「嘆きの壁」で、ユダヤ教徒の聖地とされている。イェルサレムの岩のドームと嘆きの壁
(トリップアドバイザー提供)
1967年6月、第3次中東戦争で、それまでヨルダンが管理していたこの地区がユダヤ人に解放され、ユダヤ教の聖地としてこの壁に祈りを捧げることができるようになった。<上田和夫『ユダヤ人』1986 講談社現代新書>
宗教的コミュニティー
イェルサレム旧市街の5つの宗教的コミュニティー(神殿の丘を別にすれば、ユダヤ教・キリスト教・アルメニア教会・イスラーム教の4地区)のうち、ユダヤ教区をのぞく3地区では、「一部イスラーム教徒もしくはキリスト教徒が共棲している。現実はこれらの三大啓示宗教各派の信徒集団に帰属することと、民族的・政治的アイデンティティー(自己同一性)とは必ずしも同一ではない。ちなみに、居住地区の基本的区分はビザンツ帝国時代にさかのぼる。十字軍以前の初期ムスリム時代には、現在のイスラーム教徒居住地区とユダヤ人居住区がそれぞれ入れ替わっていた。現在の区分はオスマン帝国時代の15~16世紀に定着したものである。城内は、石畳の狭い路地が迷路のように縦横に曲がりくねって、その迷路に沿って商店や集合住宅が密集している。居住人口は3万とも4万ともいわれる。」<高橋正男『物語イスラエルの歴史』2003 中公新書 p.6-8>イェルサレム首都問題
パレスチナ紛争の深刻化
1947年、国際連合が議決したパレスチナ分割案では、イェルサレムは国連の管理下に置かれることとされた。1948年5月、イスラエルは独立宣言、翌日パレスチナ戦争(第1次中東戦争)に突入し、それに勝利して建国を成功させたイスラエルは1950年にイェルサレムを首都とすることを宣言した。しかし嘆きの壁を含む旧市街である東イェルサレムはヨルダンが支配していた。1967年の第3次中東戦争でイスラエル軍はヨルダン川西岸全域などと東イェルサレムを占領、全市を支配下に置いた。それ以後イェルサレム全市がイスラエルの実効支配下に置かれることとなった。イスラエル、首都と宣言
1973年、第4次中東戦争でイスラエル軍に実質的に敗北したエジプトのサダト大統領は、イスラエルとの和平へと大きく転換、PLOのパレスチナ人の意向を無視する形でイスラエルとの共存を図り、1979年3月、エジプト=イスラエル平和条約を締結した。翌1980年にはイスラエルは東西イェルサレムを永久に首都であると法案を国会で成立させ、政府官庁、国会など首都機能はすべて同市に移した。しかしこのイスラエルの強硬な姿勢は、イスラーム教徒のアラブ諸国だけでなく、国連を初めとする国際世論を硬化させ、多くの国はそれを認めなかった。そのため各国は大使館をイェルサレムには置かず、テルアビブにおいている(日本も含めて)。アメリカの「イェルサレム大使館法」
1993年、オスロ合意によってパレスチナ暫定自治協定が成立し、パレスチナ暫定自治行政府が発足するとイスラエルとパレスチナ国家の共存の道が開かれた。パレスチナ国家は将来の首都を東イェルサレムに置くと想定された。アメリカはこの和平を仲介する立場にあったが、国内のユダヤ人団体などの和平に反対する勢力をなだめるため、1995年に「イェルサレム大使館法」を制定、1999年までに駐イスラエル大使館をイェルサレムに設置するとした。ただしそれはパレスチナ国家の成立を条件とし、かつその実施判断は大統領にゆだねるというものであった。パレスチナ和平の頓挫
1995年、イスラエルで和平を推進したラビン首相が右派勢力によって暗殺され、右派のネタニヤフ政権が成立し、オスロ合意による和平は実態は失われることになった。イスラエルは東イェルサレムも含めてイェルサレムを実効支配、パレスチナ自治政府への領土返還にも応じない姿勢を強め、パレスチナ和平は急速に後退、再び対立が激化した。第2次インティファーダ 象徴的な出来事が、2000年9月28日、イスラエルの野党リクードの党首シャロンが護衛の警官とともにイェルサレムの「神殿の丘」に登ったことにパレスチナ側が反発し、インティファーダ(第2次)が起こったことである。
この間、アメリカ政府はクリントン・ブッシュ・オバマ政権のいずれも情勢の悪化を危惧して「イェルサレム大使館法」の実行を見送っていた。
NewS トランプ、アメリカ大使館を移転強行
ところが、2017年1月にアメリカ大統領となった共和党トランプ政権は、同年12月、「イェルサレム大使館法」を実施し、アメリカ大使館をテルアビブからイェルサレムに移転することを宣言した。この措置は、イェルサレムをイスラエルの首都と認めることになるので、イスラエル(ネタニヤフ政権)とアメリカ国内のユダヤ人団体は歓迎を表明したが、アラブ側・パレスチナ自治政府は当然ながら強く反発し、中東情勢を強く刺激、抗議行動が起こった。しかし、2018年5月14日、トランプ政権は大使館移転を実行した。この日はイスラエル建国70周年にあたっていたが、アラブ側にとっては「ナクバ(大災厄)」の日に当たるので、強く反発した。現在のところ、大使館をイェルサレムに移した国は少数に留まり、日本をふくめアメリカに追随する国は多くはないが、トランプ政権の既成事実づくりが定着する恐れがある。