イスラエル
1948年5月、国際連合のパレスチナ分割決議に従って建国を宣言したユダヤ人国家。反発したアラブ連盟との間でその後四次にわたる中東戦争を戦い、領域を拡大しているが、対立はさらに激化している。
- (1)建国とパレスチナ戦争
- (2)中東戦争
- (3) 中東和平の混迷
- (4) 21世紀の危機
(1)建国とパレスチナ戦争
イスラエルの建国
イスラエル国旗
その結果、1947年の国際連合総会において、パレスチナ分割案勧告決議が成立した。それは、パレスチナの地を二分するが、両者の区域が混在する複雑な区分であった。ユダヤ人はそれを受け入れて、1948年5月14日にイスラエルという新国家を建設し独立宣言を行った。初代首相はベングリオン。イスラエルの建国は、19世紀後半に起こったシオニズムの帰結であった。ユダヤ人は古代のパレスチナがローマの属州になって滅亡し、ユダヤ人が離散してから約2000年を経て、ようやく民族の国家を再建したこととなり、そのことを旧約聖書の「出エジブト」(エクソダス)に喩えている。
イスラエルの国旗 すでに1897年の第1回シオニスト会議でシオニスト運動の旗として採用されており、1948年の独立によって国旗とされた。中央の星はダビデの星(六芒星)といわれるユダヤ人の象徴。
パレスチナ戦争の勃発
イスラエル Google Map
5月14日はイスラエルが独立宣言を行った日で、独立記念日とされているが、イスラエル建国のためにパレスチナを追い出された難民にとっては、苦難の始まりを意味していた。現在に続くパレスチナ問題の始まった日でもあり、パレスチナのアラブ人はこの日を「大災厄(ナクバ)」といってその苦難を忘れないようにしている。
イスラエル (2)中東戦争
1948年、パレスチナにイスラエルが建国されユダヤ人多数が移住しアラブ人との対立強まり、70年代までに4度の中東戦争を戦う。アメリカの支援のもと、軍備の近代化に努め強力な軍事力でアラブ諸国軍を破り、次第に占領地を拡げているが、同時に多数の難民が出現、反イスラエルのテロが頻発した。
ユダヤ大移民時代
1948年、パレスチナ戦争(第1次中東戦争=イスラエルから言えば独立戦争)で勝利したイスラエルは、それまでのヨーロッパ各地からだけではなく、中東地域からも多数のユダヤ人が移住してきた。1948年から51年までを「ユダヤ大移民時代」とよび、人口は70万から140万に倍増した。しかし、ユダヤ人と言っても、戦前のヨーロッパからナチス=ドイツの迫害を逃れてパレスチナに移住していた「アシュケナージム」と言われる人々と、建国後にアジア・アフリカ地域から移住したユダヤ人との間に、貧富の格差が大きくなり、経済危機が広まった。イスラエルには戦前の入植時代からロシア系ユダヤ人によって社会主義的集団農場であるキブツが作られ、移住者を吸収し、独特の生産と軍事的性格を持つ制度として存在していた。第2次中東戦争(スエズ戦争)
1956年10月29日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化宣言を発表したことで衝撃を受けたイギリスはフランスとともにイスラエルに出兵を要請した。ベングリオン首相は国力を伸張させる機会ととらえて、エジプトに侵攻した。戦闘ではエジプト軍を圧倒してシナイ半島を占領したが、国際世論は英仏とイスラエルの軍事行動を非難、孤立した三国は撤退した。戦争には勝ったが、ナセルの主張したスエズ運河国有化は認められ、政治的には敗れたこととなり、イスラエルは苦境に立つことになった。1960年代
イスラエルはアメリカ・イギリスからの支援と、西ドイツからの賠償金で経済を維持していたが、軍事優先の財政のためもあって国内の不況が続いた。また、国際政治上の不利も解消されず同情はアラブ側に集まった。1964年にはアラブ人によるパレスチナの解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO)も結成され、エジプトとシリアがそれを支援、イスラエルとの関係は悪化した。第3次中東戦争の勝利
ヨルダン川の水利を巡ってイスラエルとシリアの間に紛争が生じると、シリアを支援するエジプトのナセル大統領はアカバ湾の入り口を封鎖した。これを反撃の機会ととらえたイスラエルは独自に周辺のアラブ諸国に対する攻撃を開始し、1967年6月5日の第3次中東戦争を起こした。これは、イスラエルが国内の不況と対外的な不利を一挙に解決しようとした軍事行動であった。この戦争ではイスラエル軍は奇襲戦法によってエジプト、シリア、ヨルダンという三方のアラブ諸国軍を次々と破り、ヨルダン川西岸(東イェルサレムを含む)、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領、積極的に入植者を送り込んだ。このイスラエルの建国と領土拡大に伴い、多くのパレスチナ人が難民となって周辺に移住した。1969年にはパレスチナ解放機構(PLO)の議長により過激なファタハを率いるアラファトが就任、イスラエルに対する激しいテロ活動を展開するようになった。
第4次中東戦での苦戦
1973年10月6日、エジプト大統領サダトはシナイ半島での軍事行動を指令、呼応したシリア軍はゴラン高原でも、一斉にイスラエル軍占領地域への攻撃を開始した。不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされ、中東戦争で初めて敗北、後退を経験した。しかし、ようやく態勢を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。この第4次中東戦争はイスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。イスラエルにとっては緒戦の敗北という衝撃を受けたが、アラブ諸国が石油戦略を採用し、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエル支援国に対する原油の販売停止又は制限したことによって石油危機(第1次オイル=ショック)が起きるという、より大きな影響を与えた。
エジプト=イスラエル和平
しかし、より大きな衝撃に襲われたのはエジプトの大統領サダトだった。勝利寸前までいったイスラエルとの戦争で逆転を許し、最後は敗れたという事実から、最終的には和平を実現するしかないという方向に大きく舵を切ったのだった。1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し交渉相手として和平交渉に入ることを表明、ついで翌78年、アメリカのカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平を実現し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約が成立し、イスラエルはシナイ半島を返還した。これによって他のアラブ諸国もイスラエルの存在を認め、その消滅をめざすのではなく、共存していくしかないという姿勢に転換した。しかし、パレスチナのアラブ難民の存在は無視されることとなるとして、パレスチナ難民とパレスチナゲリラは激しく反発、パレスチナ解放機構(PLO)は激しいテロ活動に転換する。1976年6月にはパレスチナゲリラが航空機をハイジャックし、エンテベ空港事件が起きたが、それを起こしたのは、PLOの中の最過激派PFLPだった。エジプトの転換と、パレスチナゲリラの活動の中で、イスラエルにとっての敵はPLOとそのテロだけだという状況が作り出された。 → パレスチナ問題(1980年代)
イスラエルのレバノン侵攻
PLOは次第に追いつめられ、その本拠をレバノンに移した。1982年6月、イスラエルのベギン政権は、世界の目がイラン=イラク戦争や、フォークランド戦争にむけられているとき、パレスチナ=ゲリラの対イスラエル=テロを根絶することを口実にレバノン侵攻を強行した。これは第五次中東戦争とも言われることがある。シャロン国防相が指揮するイスラエル軍はベイルートなどを軍事占領、その結果、PLOはチュニスに撤退し、その力を大きく失うこととなったが、このときイスラエル軍に呼応したレバノン国内のマロン派キリスト教徒による、パレスチナ難民キャンプのアラブ人に対する虐殺行為が行われ、イスラエルに対しても厳しい批判がまき起こり、ベギン首相とシャロン国防相は退陣しなければならなくなった。イスラエル (3)中東和平の混迷
4次に渡る中東戦争を耐え抜いたイスラエルは、パレスチナを占有する国家として国際的に承認されることとなった。それにたいするパレスチナ=ゲリラの抵抗も激しかったが、ようやく80年代終わりにPLOも二国共存路線に転換、和平が進展した。
PLOの方向転換
1987年にはイスラエルの支配するガザ地区でパレスティナ人の自発的な抵抗運動インティファーダ(第1次)がもりあがる中、PLOのアラファトは1988年に国連で演説し、パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、残りの22%に相当するヨルダン川西岸とガザ地区に限定した「ミニ国家」を建設することを中心としたイスラエルとの和平交渉に入ることを提唱した。これはパレスチナにおけるに二国家共存をめざす、大きな転換であり、イスラエル側もその受容に傾いた。冷戦終結後の中東
しかし、1989年に始まる東欧革命は、ソ連を中心とした社会主義陣営の崩壊をもたらし、ついには冷戦の終結宣言がなされるに至った。さらにソ連が崩壊したことは、中東情勢にも大きな影響を与えた。米ソの対立という対立軸が失われた冷戦後の世界は、新たな秩序を生み出すのではなく、世界情勢の混迷を生み出し、各地に独自の行動が始まった。イラクのフセインがウエートを侵略したのもそのあらわれであり、それに対して国際連合が機能せず、1991年の湾岸戦争でアメリカ軍を主体とした多国籍軍が侵攻し、勝利者となったことで、中東においてもアメリカの主導権が強まり、それに対する抵抗の動きが新たな対立軸となっていった。湾岸戦争と和平機運の高まり
1991年の湾岸戦争で、イラクのサダム=フセイン大統領は、リンケージと称してパレスチナ問題と関連付け、アラブ諸国の同調を得ようとしイスラエルにミサイル攻撃を行った。イスラエル国内は隣接していない国からの空爆に怯えてパニックに陥り、防毒マスクが飛ぶように売れた。イスラエル軍がイラクに反撃すれば、フセインの思惑どおりアラブ諸国が反イスラエル=アメリカ連合との戦いに同調し、世界戦争に拡大する恐れがあったが、アメリカは強くイスラエルに自重を求め、イスラエルは反撃しなかった。マドリード会議 この危機を経たアメリカとイスラエルは、従来のエジプト=イスラエル平和条約のようなものではなく、中東諸国を含む広範な集団安全保障の必要を自覚し、中東和平を前進させることをめざした。そのようなアメリカが主導して開催されたのが、1991年10月のマドリード中東和平会議だった。この会議にはアメリカなど主要国とともに当事国としてイスラエルが参加、そしてパレスチナ人がヨルダンとの合同代表団に加わるという形で参加し、イスラエルとパレスチナ人代表(PLOは除外されていたとはいえ)が国際会議で初めて顔を合わすこととなった。
しかし一方の当事者パレスチナ解放機構(PLO)は、湾岸戦争でサダム=フセインのイラクを支持したことから、他のアラブ諸国から非難され、その国際的な地位を低下されていた。そしてマドリード会議にもパレスチナ代表として認められず招聘されなかった。PLOのアラファトはこのような劣勢をはね返すために、大胆な転換を図り、密かにオスロで進められていたイスラエルとの交渉で起死回生を賭けた。酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.105-107
オスロ合意 1993年にノルウェーの仲介でPLOとイスラエルの当事者間の話し合いが初めて行われ、中東和平に関するオスロ合意が成立し、アメリカのクリントン大統領のもとでPLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相(労働党)の両代表が握手しパレスチナ暫定自治協定が成立、94年にパレスチナにはパレスチナ暫定自治行政府(実体はPLO)が設立されることになった。
対立の再燃
しかし、湾岸戦争でのアメリカ軍の進駐に反発したアラブ過激派のイスラーム原理主義運動が盛んになり、PLOの和平路線に反発する新たな勢力としてハマスが台頭した。イスラエルでは1995年11月4日に和平推進派の労働党ラビン首相が暗殺され、右派のリクードが急速に台頭、2000年9月28日にはリクード党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教神殿への立ち入るという行動をとり、反発したパレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こった。シャロンは翌年には首相となり、右派リクードを率いて対パレスチナ強硬路線が強まった。(4)21世紀の危機
1990年代にはパレスチナとイスラエルが二国共存を相互に認めることで中東和平に一定の進展がみられた。しかし、イスラエルには強硬派ネタニヤフ政権が出現、領土拡張、軍備強化路線を強め、パレスチナ内の過激派の活動も活発化して緊張がふたたび高まった。ただアラブ諸国にもかつての結束はなくなり、イスラエルによる占領地支配が事実上既成事実化しつつある。
パレスチナ問題の混迷
2001年9月、アメリカでの同時多発テロが起こるとシャロン政権はアメリカのテロとの戦いに同調、アラブ過激派の行為と断定、その背後にあるとしてPLOに対する対決姿勢を強め、ヨルダン川西岸に侵攻してラマラにいたアラファトを事実上軟禁状態にした。一方アメリカはイラク戦争を遂行する上でその大義のためにはパレスチナ和平を進める必要があり、2003年ブッシュ(子)大統領が仲介してシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバス首相の間を仲介し、中東和平ロードマップを作成、国連もそれを支持した。シャロンも和平路線に転じて、2005年8月、ガザ地区からのユダヤ人入植者とイスラエル軍の撤退を実行した。
このシャロンの姿勢転換にリクード内部の右派ネタニヤフらからの非難が強まると、シャロンは2005年、リクードから分離し中道政党カディーマを結成した。
強硬姿勢への転換
イスラエルはガザ地区からの入植者の撤退を表明、2005年8月にそれを実現させた。しかし、さらに広大なヨルダン川西岸地区のイスラエル占領地区ではユダヤ人の入植と、入植地を守るための壁の建設が進められており、対立はかえって激化することとなった。パレスチナではイスラーム原理主義の影響を受けたハマスが台頭し、2006年のパレスチナの総選挙で第1党となり政権を担当するようになった。イスラエルではガザ地区撤退を進めていたシャロン首相が2006年1月に脳卒中で倒れ、国内での右派の発言力が強まり、同年8月にはイスラエル軍がレバノン南部を実効支配しているシーア派民兵組織ヒズボラのテロ活動を排除するという理由でレバノン南部に侵攻した。2008年以降、特にガザ地区をめぐっての緊張が深まった。
2009年3月にはリクードの党首右派のネタニヤフが首相となり、パレスティナのハマスやイランなどの反イスラエル勢力との対決、アラブ・ゲリラ攻撃に対する徹底した反撃などの強硬路線をかかげて長期政権を続けた。
核武装疑惑
イスラエルは周辺をアラブ諸国に囲まれているところから、高度の軍事国家として装備を最大限現代化している。その核武装については、一切明らかにしていないが、保有は公然の秘密とされている。イスラエルとしては、イランに核武装の疑惑がある以上、自衛のための核保有は当然と意識しているのであろう。そのため、1968年に締結され70年に発効した核拡散防止条約(NPT)には加わっていない。2015年の国連における核拡散防止条約再検討会議において、アラブ諸国が中東の非核交渉開始を提案したことに対して、アメリカが反対したのは、同盟国イスラエルの核保有が明るみに出ることを恐れたためと考えられており、オバマ大統領の非核構想の二枚舌性が露呈した格好となっている。
イェルサレム首都問題
イスラエルは、聖地イェルサレム(エルサレム)を首都と定めたが、旧市街を含む東イェルサレムはヨルダンの支配下に置かれ、「嘆きの壁」に近づくことはできなかった。イスラエルは1967年の第3次中東戦争でイェルサレム全域を実効支配するに至り、1980年には改めて首都であることを宣言して国会、政府機構を移転させた。しかし、国際社会はイェルサレムをイスラエルの首都と認めておらず、ほとんどの国は大使館などはテルアビブに置いている。トランプ大統領、イェルサレムを首都と認定 アメリカも大使館はテルアビブに置いていたが、2017年1月に就任したトランプ大統領は方針を転換、2018年5月14日に大使館をイェルサレムに移転させた。多くの国はまだ追随していないが、イェルサレム首都問題は中東問題の焦点のひとつとなっている。トランプ大統領はアメリカの中のユダヤ人社会を支持基盤としていると言われており、ユダヤ人寄りの外交政策が目を引く。トランプは同じ5月の8日にイラン核合意からの離脱を表明し、イラン=イスラーム共和国との関係が一気に悪化しているが、これもイランの核開発に強く反発するイスラエルの意向に沿うものと考えられる。
UAE、バーレーンと国共正常化
トランプ政権は2020年8月、再びイスラエル寄りの外交姿勢を明らかにし、アラブ産油国のひとつアラブ首長国連邦(UAE)との間を仲介し、両国の国交樹立を実現した。これはイスラエルにとってアラブ諸国の中ではエジプト、ヨルダンに次ぐ、三番目の国交樹立(イスラエルの承認)となり、イスラエル包囲網の一端に風穴を開けたこととなり、国内で汚職問題などで不人気の続くネタニヤフ政権にとっても得点となる。11月に大統領選挙を控えたトランプ政権にとってはユダヤ系アメリカ人、キリスト教福音主義派などの支持を維持するための手段という面が強い。 → アメリカの外交政策続いて9月11日には、トランプ大統領はイスラエルとバーレーンとの国交正常化を仲介したと発表した。バーレーンのハマド国王は、イスラエルとパレスチナの和平合意も必要と述べているが、イランの脅威を感じている点はUAEと同じで、イスラエルのネタニヤフ首相とアメリカのトランプ大統領にとっては外交上の得点としたいという三者の思惑が一致した結果であろう。アラブ諸国は公式にはイスラエルに対して1967年の第3次中東戦争以降の占領地の返還、東イェルサレムを首都とするパレスティナ国家の樹立を和平の最低条件としているが、イスラエルはアメリカの仲介を得て、アラブ諸国を徐々に懐柔し国家存立を既成事実化しつつあるといえる。
ネタニヤフ政権
ネタニヤフ
右派のネタニヤフ政権に対してアメリカのトランプ大統領は支持を強め、2017年にはイェルサレムをイスラエルの首都であると承認、18年5月にはアメリカ大使館を移転させ、アラブ側は強く反発した。また2020年1月にはトランプ大統領の仲介でアラブ首長国連邦と国交を正常化させ、その後バーレーンなどが続いた(アブラハム合意)。2021年5月にはイェルサレムのモスクへの通路を封鎖してパレスチナ人が反発、ガザ地区のハマスが抗議としてロケット弾を撃ち込んだことへの報復としてガザ地区を空爆した。
このようにネタニヤフは徹底したタカ派としてアラブ、パレスチナ、そしてイランとの敵対関係を強めることで政権を維持してきたが、政権の長期化によって政府内部の腐敗が起こってきた。2020年1月にはネタニヤフ自身が収賄罪で起訴され、内政面ではその不正が明らかになって支持に陰りが生じた。
ネタニヤフ首相の退陣 2021年3月に行われた総選挙では、合わせて15年、連続して12年の長期にわたり首相をつとめたネタニヤフが、政権長期化に伴う腐敗が批判されたことで人気が落ち、リクードは単独過半数をとることが出来なかった。連立工作にも失敗したことをうけてネタニヤフはついに退陣、イスラエルに変化が訪れるかに見えた。この間、2021年5月にイェルサレムの衝突事件をきっかけに、ハマスがイスラエルをロケット弾で攻撃し、報復としてイスラエルが空爆するというガザ戦争が起こったが10日間で停戦が成立、ネタニヤフ政権復活にはならなかった。
安定多数を占めた政党がないことから連立政府を樹立することになったが交渉が難航し、ようやく6月2日夜に交渉がまとまり、リクードを除く8党が連立内閣で合意した。新首相は極右政党ヤミナの党首ベネットが就任するが、連立に参加するのは右派、中道、労働党、さらにアラブ系政党までを含んでおり、反ネタニヤフということだけでまとまった連合政権だった。
イスラエル、ネタニヤフ政権の復活
2021年6月に成立した「反ネタニヤフ8党の連立政権」は、右派から中道、左派、アラブ人政党まで含んでおり、はじめから安定性に欠けていた。早くも22年4月、ベネット党首の率いる「ヤミナ」が分裂したため連立与党は議会で多数派を形成できなくなった。やむなく6月に退陣、中道政党「イェシュアティド」のラピドが暫定首相となり、解散・総選挙を約束した。ラピド政権はパレスチナ問題をいったん棚上げにすることを国際的に表明したが、ネタニヤフ前首相はさっそくそれを「イスラエルを危険にさらす弱腰外交」として批判し、復権の姿勢を示した。イスラエルの総選挙は22年11月1日に行われた。2019年以来、四度目となる選挙はネタニヤフを支持するかしないかが焦点となり、大接戦となった。結果は中道ラピドのイェシュアティド・右派ネタニヤフのリクードのいずれも単独で過半数に達しなかったが、連立交渉は12月21にまで続き、同日、わずかにラピド政権に反対しネタニヤフを支持した野党が総数でうわまわり、ネタニヤフ政権が復活する見通しとなった。ネタニヤフは12月29日の議会で首相に信任され、1年半ぶりに政権に返り咲いた。 → 朝日新聞デジタル 2023/12/31 記事
「史上最右翼」政権誕生 2022年12月29日に復活したネタニヤフ政権は右派リクードと極右勢力や宗教右派が連立を組んだものであり、それまでのネタニヤフ政権よりもさらに右寄りで「史上最右翼」と言われている。イスラエルでネタニヤフ政権が復活した背景には、世界の注目がウクライナ戦争にあつまることで国家防衛での強硬派が勢いづいていることがあげられる。ネタニヤフもパレスチナ問題での強硬姿勢を崩さず、前政権を弱腰と非難することで息を吹き返し、イランとアメリカのイラン核合意には一貫して反対していることで、依然として「強い男」と見られている。しかしそのようなイスラエルの強硬派の復権に対して、パレスチナ暫定自治行政府は当然反発している。ところがガザ地区では自治政府の統制が及ばない新たなイスラーム原理主義過激派ハマスが台頭するなど、イスラエルの神経を尖らせる動きも表面化している。
さっそく2023年1月3日はネタニヤフ内閣の新閣僚、国家安全保障相となった極右政党党首のベングビールがイェルサレムのユダヤ教聖地「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人・イスラーム教徒の心を刺激している。これにはアラブ諸国だけでなく、二国共存の中東和平を進めようとしているアメリカや西欧諸国にも懸念の声が起こっている。 → 朝日新聞デジタル 2023/1/4 記事
朝日新聞の記事には「訪れ」となってるが、これは単なる「訪問」にはあたらない。ユダヤ教徒が聖地とする「神殿の丘」は、イスラーム教徒にとっての聖地ハラム・アッシャリフ(岩のドームのあるところ)であり、時事通信によるとヨルダン政府傘下のイスラム組織が管理しており、ユダヤ教徒は訪問はできるが礼拝は禁止されている。ベングビール氏は正統派ユダヤ教徒であり、かねてこの聖地でユダヤ教徒の礼拝を認めよと主張していた(聖地のある東イェルサレム地区は1967年の第3次中東戦争でイスラエルが併合を強行したが、神殿の丘での自由礼拝はできていない)。ベングビール氏は人が少ない午前7時ごろにユダヤ教の数人と共に訪れ、約15分間滞在。同氏はこれまでも訪問したことがあったが、閣僚就任後では初めてだった。ねらいはイスラム組織ハマスの脅しに屈しないネタニヤフ新政権の姿勢を示すことにあったという。 → 時事通信 2023/1/5 記事
2023年はウクライナ戦争が年をまたぎ、長期化の様相を呈しているが、忘れた頃にやって来るではないが、中東情勢(パレスチナ問題)でも緊張感が戻っており、目をはなすことはできない。それにそなえて(?)、この際、中東問題をお復習いしておく必要があるかも知れません。<2023/1/4 記>
NewS イスラエルのガザ侵攻
2023年10月7日、ハマスがガザ地区の拠点からイスラエルにロケット弾を発射、国境を越えて侵攻、多数のイスラエル市民が殺害され、さらに200人以上の人々が人質として拉致された。アメリカを始めとする国際社会の多くはハマスのテロ行為を非難し、イスラエルの自衛権発動を支持した。イスラエルのネタニヤフ政権はただちに報復の空爆を開始した。イスラエル軍の地上侵攻は多くのガザ住民が犠牲となり、人質の解放も難しくなることが予想されるので、国際世論は地上戦を自重するよう働きかけたが、イスラエル軍はなし崩し的に侵攻を行った。2023年と言う時期については第4次中東戦争から50年、オスロ合意によるパレスチナ暫定自治協定成立から30年に当たっていることに意味があるのではないか、と考えられる(ガザ地区の項を参照)。
この出来事によって、国際世論が後押ししたオスロ合意の「二国家共存」が、その後の交渉で合意に至らず失敗に終わり、その実現がいかに困難なことかがいまさらながら明らかになった。イスラエルとパレスチナの当事者双方の思いは、我々のいう和解や、人道的な停戦、平和への願いのレベルを超えてしまっている感がある。それにしても、イスラエルの強硬な姿勢はどこから来るのだろうか。イスラエル人の中に、1970年代以来うち続くパレスチナ人の自爆テロに対し、心からの恐怖心と敵愾心ができあがってしまっているのだろう、とは想像がつく。また、我々はガザ地区やヨルダン川西岸のパレスチナ人の苦境は同情せざるを得ないのだが、多くのイスラエル人のそれを「知らない」し、「知ろうともしない」でいるともいわれている。そのような国民の心情に支えられたネタニヤフ政権は、一方で汚職や不正を批判されながら、「強いイスラエル」、「テロから我々を守ってくれる政権」として存在している。
今回の出来事をイスラエルの文脈で、タカ派ネタニヤフ政権の登場の結果と見ることもできる。イェルサレム手と問題での強硬な姿勢はパレスチナ人、イスラーム教徒を刺激し、またトランプ=ネタニヤフコンビで進めた2020年のアブラハム合意(アラブ首長国連邦などアラブ諸国とイスラエルの国交樹立)が、パレスチナの孤立を深めた、と見られるからだ。
1982年 レバノン侵攻との類似点 歴史的に見れば、今回のイスラエル政府の強硬姿勢の背後には、過去の成功体験があるのではないだろうか。それは、交渉相手PLO=アラファトに対する徹底した排除の姿勢である。それが端的に表れているのが、ほぼ40年前の1982年のレバノン侵攻だ。このとき、PLOはレバノンに拠点を移し盛んにイスラエルに対するテロ活動を行っていたが、イスラエルのベギン政権はテロの根源をたたくとしてベイルートを攻撃、PLOはチュニスに追いやられた。これはPLOがテロを放棄し和平路線に転換せざるを得なくなる結果を招いた。イスラエルがレバノンの主権を侵して軍事行動を起こし、PLOを中東から排除したことに、イラン=イラク戦争やフォークランド戦争に目を奪われていた国際世論はほとんど非難の声をあげなかった。
今回もウクライナ戦争の最中で国際世論が動揺しているときに、テロとの戦いという正当な理由によって全面戦争を仕掛け、交渉相手とは認めないハマスをガザ地区から徹底的に排除する、という筋書きであろう。レバノン侵攻の時は付随してマロン派によるパレスチナ難民虐殺が明るみに出て、ベギン政権は倒れたものの、イスラエルはPLOを和平路線に転換さえるという大筋での勝利を得ている。イスラエルにはこのような「成功体験」があるのではないだろうか。あるいは建国以来のシオニスト国家樹立へのプランに沿っているのかもしれない。しかしこのような思惑通りに行くだろうか。すでにハマス亡き後のガザ地区の統治のあり方について青写真も論じられているようだが、鍵となるべきパレスチナ自治政府が機能しないこと、アメリカがどれだけコミットするのだろうか、何よりもこのようなイスラエルの侵攻に口実を与えるハマスの行動とは、単なるパレスチナ人のイスラエルへの憎しみと理解するしかないのだろうか・・・。などなど、現時点では分からないことが多い。<2023/11/11記>
→ 2021年5月 ガザ戦争