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ネストリウス派

キリストに神性と人性を共存しているとするネストリウスが、431年のエフェソス公会議で異端とされた後、ネストリウス派というキリスト教一派を形成し、エジプト・シリアを経て東方のササン朝を経て中国にまで伝わり、景教といわれた。

 4世紀にキリスト教正統の教義とされたアタナシウス派の教義では、キリストは神性と人性が融合して一体となったとされていたが、あわせてキリストを産んだマリアに対しては「神の母」として信仰することがひろがっていた。それに対して、458年、コンスタンティノープル総大司教のネストリウスは、まず、マリアを「神の母」(ギリシア語でテオドコス)とすることに疑問を呈した。

キリストの人性と神性を分離

 ネストリウスは、マリアを「神の母」と呼ばず「キリストの母」(クリストコス)と呼ぶことによって、キリストの人性を明確に示そうとした。マリアを神の母とすれば、神を人間が創ったことになり、神(ヤハウェ)を万物の創造主であるとする根本教義と矛盾するからである。そのうえで彼はアタナシウス派のキリストを人性と神性の両性が融合して一体となったという説を否定し、人性と神性は区別されるべきであり、キリストにおいてはその両性は独立しながら共存していると主張し、キリストの「人性」を守ろうとした。
 これに対するアレクサンドリア教会の司教キュリロスは、激しく反発し、キリストは人性と神性の両性が融合して一体となっているとし、ネストリウスの説はキリストの神性を危うくすると反論し、激しい議論が続いた。

エフェソス公会議

 東ローマ皇帝のテオドシウス2世は、両派の対立の解消をはかり、431年エフェソス公会議(第三回公会議)を召集した。結果的にこの公会議ではネストリウスは異端として退けられ、はエジプトに追放となった。
 なおエフェソス公会議ではテオドシウス2世は両派の妥協を促したが、ネストリウスとキュリロスの双方とも引かず、皇帝は仕方なく両者を同時に罷免した。しかし、キュリロスは政治力を発揮してもとの位に復帰したが、ネストリススは復帰できず、結果的にキュリロスに軍配が上がる形となった。ネストリウス自身はエジプトに追放され、復帰できなかったため、その後はキュリロス派が勢力を増すこととなった。<浅野順一編『キリスト教概論』1966 創文社 p.149>

単性論との違い

 エフェソス公会議で結果としてネストリウスは異端とされたが、キリストの本性をどう見るかについては、その後もさらに異論が現れた。正統派とされたアタナシウス派では、キリストの本性は人性と神性の両性を有し、二つの本性が実体として一つとなっているとしていたが、ネストリウスはキリストの「人性」を有することを重視した。それにたいして、逆に、キリストの本質は神性であり、しかも神性しか認められないという単性説が現れた。
 そのため、教義を守ろうとした正統派との間でまたも激しい論争が起こったので、451年カルケドン公会議が召集された。そこで最終的に単性説は否定され、あらためて三位一体説が正統として確立する。

中国に伝わり景教といわれる

 その後、ネストリウス派のキリスト教は、東方に広がり、イランを中心に独自の発展を遂げ、ササン朝ペルシアを通じ中国に伝わり、中国では景教と言われた。唐の都長安には景教の寺院が建てられ、信者が多かった。長安における景教の流行については、大秦景教流行中国碑によって伝えられている。宋代以降は中国の景教は衰えたが、ネストリウス派は中央アジアを中心に存続し、現在もイラクや南インドにわずかだが残存している。