エフェソス
小アジア西岸、ミレトスと共にイオニア地方の中心都市として繁栄。壮大なアルテミス神殿があったことでも有名。ローマ時代には属州アシアの州都となった。
イオニアの一都市
エフェソス Ephesos は小アジアの西岸、エーゲ海に面したギリシア人の都市。エペソスとも表記する。前11世紀ごろ、イオニア人が入植して建設した伝承をもつ。 南のミレトスと並んで交易で栄え、前6世紀にはイオニア自然哲学の中心の一つとなった。イオニア自然哲学の一人で、「万物は流転する」と説いたことで知られるヘラクレイトスはエフェソスの人であった。ペルシア帝国の支配 前6世紀後半、オリエント世界の四国分立時代にはリディア王国の支配を受け、クロイソス王はこの地に巨大なアルテミス神殿を建造したという。この神殿は世界の七不思議の一つに数えられている。リディア王国を滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの支配がこの地に及ぶと、王の道の起点で会ったサルデスにつながる港湾都市として栄えた。当時のエフェソスは、港から外海のエーゲ海に繋がっていた。
イオニアの反乱 ペルシア帝国はイオニア地方の諸都市の交易活動に介入し、その活動を制限しようとした。それに対して、前499年、ミレトスなどのイオニア諸都市がペルシア帝国に対する反乱を開始した。このイオニアの反乱をアテネなどのポリスが支援したことから、ペルシア帝国軍によるギリシア遠征が企てられ、ペルシア戦争となった。三次にわたる戦争はペルシアの敗北で終わり、アテネを中心とするポリス連合軍によってエフェソスも解放された。ギリシアの覇権を握ったアテネはデロス同盟を組織、エフェソスも同盟に加盟した。しかし、アテネとそれに対抗するスパルタとの間でペロポネソス戦争が始まると、前412年頃、エフェソスはアテネから離反してスパルタ側についた。
ヘレニズム時代 アレクサンドロス大王がギリシアからオリエント世界にまたがる大帝国をつくり、ヘレニズム時代が到来した。エフェソスは大王の死後、ディアドコイの一人のリュシマコスの勢力下に入りった。前301年、リュシマコスは王を称し、一時期最も優勢となって小アジア全土を抑えたが、前281年、セレウコス朝シリアと戦って敗れ、その死後、王国は分解した。エフェソスはその後、やはりヘレニズム国家のひとつであるペルガモン王国に統合された。
属州アシアの州都 しかし、西方のイタリア半島から興ったローマの勢力が及び、前133年にペルガモン国王が領土をローマに献上したため、エフェソスはローマの属州アシアの州都となった。前1世紀末、オクタウィアヌスと対抗したアントニウスとクレオパトラは連合軍の本拠を一時エフェソスに置いた。
Episode 世界の七不思議、アルテミス神殿
エフェソスには、世界の七不思議の一つにあげられているアルテミス神殿があった。ギリシアの女神アルテミス(ディアナとも言う)を祀った像で、雲を突く巨像だったという。アルテミスはエフェソスでは豊穣をもたらす女神とされ、その像には乳房が沢山ぶら下がっていたという。前700年頃にすでにあったらしいが建造の由来は判らない。何度か立て替えられ、リディア王国のクロイソス王の再建はよく知られている。アレクサンドロス大王が生まれた夜に放火によって崩れたという話がプルタルコスの『英雄伝』にでている。大王の死後、再建されたが、ローマ帝国の時代、262年に破壊され、そのころからエフェソスの住民がキリスト教徒となったので、再建されずに忘れ去られた。現在ではその姿を見ることはできないが、19世紀にイギリス人によってアルテミス神殿の跡といわれる遺跡が発見され、遺品の一部は大英博物館に保存されている。ローマ時代のエフェソス
ローマ時代には属州アシアの州都とされ、円形劇場や神殿などのローマ風建築が多数建造された。現在のエフェソスは、海岸線が後退し、外海から切り離されためもあってその繁栄は失われ、遺跡として残っているだけであるが、ギリシア・ローマ時代の古代都市遺跡として整備が進み、世界遺産に登録されている。(下図参照)エフェソス公会議
ローマ帝国の国教とされたキリスト教で、教義の分裂を回避するため431年に召集された第3回公会議。三位一体説を否定したネストリウスを異端と断定した。ネストリウス派はその後、シリア、ササン朝など東方にひろがり、中国にまで伝えられ景教と言われた。
ローマの国教キリスト教
キリスト教はローマ帝国に於いて、313年に公認されてから教義の統一という課題を抱えていた。325年の第1回のニケーア公会議でアタナシウスの「父(神)と子(イエス)は同質である」という説が正統とされ、キリストを神の子である人間であるとするアリウスは異端であるとされた。次いで381年の第2回のコンスタンティノープル公会議では「父と子と聖霊」の三位一体説が採用され「ニケーア=コンスタンティノープル信条」として正統信仰が確立したとみられていた。その上で、392年にキリスト教以外の宗教を禁止し、キリスト教をローマ帝国での唯一の宗教とすることを定めた。これによってキリスト教の国教化が完成した。しかし同時に、キリスト教の唯一の正統教義である三位一体説と異なる説が盛んになってきたため、皇帝が主導してさらなる教義の統一を謀らなければならなくなった。イエスは神か人か
最も議論が分かれたのは、キリストの本質をどうとらえるかというキリスト論においてであった。三位一体説にいう父と子は同質であると言っても、特にイエスの本質とされる「神性」と「人性」は、その両性を有するのか、あるいはいずれかの単性であるのか、について次第に見解が分かれてきた。アレクサンドリア派は神性を重視し、アンティオキア派は人性を重視する傾向があった。コンスタンティノポリス総主教となったネストリウスはアンティオキア派に近く、イエスを神だとすれば、その母マリアは人なのだから、人が神を産んだことになって神が創造主であると言うことが成り立たなくなると考え、マリアを「神の母」(テオトコス)と呼ぶことに反対した。また、キリストの神性と人性を分離させ、キリストは神性であると共に人性を合わせもっている、と主張しその人性を守ろうとした。それに対してアレクサンドリア総主教のキュリロスは、キリストにおいて神と人との二つの本性は一つに融合し、人性は神性に満たされて神化したと唱え、ネストリウスを批判した。エフェソス公会議
キリスト教の教義に関する重要な第3回の公会議として、431年、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世が開催した。エフェソスは小アジアのエーゲ海岸(位置は上の地図を参照)。深刻な神学論争が繰り返された結果、皇帝テオドシウス2世は双方とも自説を取り下げないことから、両者を罷免・追放するという結論を出した。しかし、ネストリウスは追放されたが、キュリロスは宮廷の高官に取り入って復位しアレクサンドリアに復帰した。さらにローマとアンティオキアの総主教がマリアを「神の母」であると認めたため、キュリロスの主張が多数派となり、結果的にはネストリウスは敗北しキュリロス派が優勢となった。
ネストリウス派の東方布教
ネストリウス派は異端とされたため、ローマ帝国では布教が認められなくなり、帝国領外の東方に拡がっていった。そしてシリアを経てササン朝ペルシアに伝えられ、さらに中国の唐代にも広がってていった。等の都長安には景教といわれたその多くの寺院が建造されたことが知られている。 → カルケドン公会議参考 ネストリウス派の主張
(引用)ニケーア公会議において、キリストは神と同質であるとする「同質論」によって、さしも紛糾した問題はいちおう公式には解決されたことになった。しかし、キリストの神性に関心が集中しすぎたため、当然同質論の前提にある「キリストは人間でもある」ことと、それに付随して起こってくる「それではキリストにおいてその神性と人性は、どのようなあり方をするのが」という重要な点は必ずしも明確な決定をみないまま残された。それゆえこの間題をめぐってニケーア公会議の後、ラオディケイアの司教アポリナリオスに代表されるキリストの神性を強調するものの出現、これへのアンティオキア学派の猛然な反対、その系譜につらなってマリアを「神の母」と呼ばず「キリストの母」と呼ぶ、ことによって、キリストの人性を明確に示そうとしたネストリウスの主張、更にこれに対するアレクサンドリアの司教キュリロスの反論と激しい抗争が続いた。431年のエフェソス公会議はネストリウスの主張を退けたが、それがかえってキリスト単性論を台頭させ、449年エフェソスの「強盗会議」(ラトロキニウム)はこれを承認するという有様であった。<半田元夫『キリスト教史Ⅰ』山川出版社 p.200>