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カルケドン公会議

451年、東ローマ帝国で開かれたキリスト教の第4回公会議。単性説を異端と裁定し、三位一体説が正統として確立し、ローマ教皇の主導権も成立した。

 451年、東ローマ皇帝マルキアヌスが主催した、キリスト教の教義に関する重要な公会議。カルケドンはコンスタンティノープルの対岸のアジア側にある。 → カルケドンの位置の確認

三位一体説か単性説か

 ローマ帝国の皇帝が主催するキリスト教の教義統一に関する公会議は、コンスタンティヌス帝325年ニケーアに始まり、381年にはテオドシウス帝が召集したコンスタンティノープル公会議でアタナシウス派の説く三位一体説が正統教義としてほぼ確定した。  しかし、帝国の東西分裂後、5世紀になるとキリスト論を巡って三位一体説を揺るがすネストリウス派の主張が現れた。ネストリウスは、マリアを「神の母」とすることに疑義を挟み、キリストにおいては人性と神性は独立した本性が合体した存在だとした。キリストの人性と神性が融合して実体となっているという従来説の立場に立つキュリロスとの間の激しい議論となり、431年エフェソス公会議が招集されてネストリウス派が異端であるとされた。

第5回の公会議

 ところが次にそれはキリストの人性と神性の両性が一体となったという正統教義を批判し、その本質は神性であるという単性説が登場した。三位一体説を守る必要を感じたローマ教会の司教レオ1世は強い危機感を感じ、ビザンツ皇帝マルキアヌスに公会議の招集を要請、そのために第4回の公会議としてカルケドン公会議が召集された。  激しい議論の結果、単性説は異端とされた。これによって、ローマ教会の三位一体説が、キリスト教の唯一の正統な教理として確定した。またこの公会議の開催を要求して実現させたローマ教会の司教の発言力が強まり、ローマ司教は首位権を主張してローマ教皇と言われるようになった。
 しかし、西ローマ帝国はこの頃、大きな脅威を迎えていた。翌年452年にはアッティラのローマ侵攻、さらに455年にはヴァンダル王のガイセリックがローマを劫掠し、そして476年オドアケルによって西ローマ帝国滅亡を迎えることとなる。

カルケドン信条

(引用)エフェソス公会議後、キリスト単性説がさらに有力となったので、451年に最後の決着をつけるため、カルケドン公会議が皇帝マルキアヌス(在位450~457)によって召集された。この会議も混乱のなかにはじめられ、怒号と叫喚に包まれて進められたが、ついに教理定式が「カルケドン信条」として宣言された。
 この信条は、「キリストは真に神であり、真に人であること、神性によれば父なる神と同質で、人性によれば我ら人間と同質であること」を改めて確認し、この両性がどのように存在するかについてば、「両性は一つの人格、一つの本質の中に並存する」とうたわれた。すなわち、両性は融合した形で一つの本質となって存在するのではなく、両性の本質ははそれぞれ完全な形で、それぞれ別個に保存されて並存する、と理解されたのである。‥‥
 この決定にはローマの司教レオ1世(在位440~461)の圧力が大きく働いたから、教義的にこの「両性説」になお承服できない「単性説」者の反対は、いきおい正統派教会から分離する運動に走ることになった。皇帝ユスティニアヌス(在位527~565)は、単性説論者を正統派と和解させようと努力したけれども、彼らの分離運動を阻止することはできなかった。今日なお残存しでいるエジプトのコプト教会やシリアのヤコブ派教会※、及びアルメニア教会は、この時発生した分離運動の流れに続くものである。<半田元夫『キリスト教史Ⅰ』山川出版 p.200-201>
※ヤコブ派は現在は「シリア正教会」と言うのが正しい。シリア正教会は「ヤコブ派」という名を否認している。また、いわゆる「単性説」に加えられることも否定している。