コンスタンティノープル教会/総主教座
ローマ帝国末期のキリスト教五本山の一つ。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の保護のもと、ローマ教会と対抗し、ギリシア正教(東方教会)の中心となる。ビザンツ帝国滅亡後はギリシア正教の独立正教会の一つとして存続。
コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)は330年に建設(帝都として整備されたのはもっと後だが)され、その地におかれたコンスタンティノープル教会はキリスト教の五本山の一つで、 キリスト教を国教としたローマ帝国の伝統を引継ぎ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の保護の下に発展した。
現在のギリシア正教では、「コンスタンティノポリス全地総主教庁」(総主教座)と言われ、独立正教会のひとつとして存続している。ここでは高校の教科書などで使われるコンスタンティノープル教会として説明する。
コンスタンティノープル総主教 コンスタンティノープル教会は、その成立と重要性の根拠を、五山の他の教会のようなイエスの使徒たちによる創設ではなく、コンスタンティヌス大帝が330年にこの地を「新しいローマ」として帝国の首都にしたという政治的状況に置いている。380年にキリスト教が国教となったことで、首都の教会としての指導的役割が強まり、381年のコンスタンティノープル公会議(第二回全地公会議)でローマ教会に次ぐ地位を与えられた。451年のカルケドン公会議(第4回全地公会議)では、名誉上ローマと同等の地位を認められた。そして6世紀には東方正教における第一位の地位を表現する「全地総主教」という呼称が使用されるようになった(一般に略称としてコンスタンティノープル総主教という)。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.192-193>
ユスティニアヌス帝 6世紀のユスティニアヌス帝は地中海世界にかつてのローマ帝国の領土を再現するなど、ローマ法大全を制定するなど帝国の権威を高めると共に、熱心なキリスト教の保護者として、首都コンスタンティノープルにハギア=ソフィア大聖堂を再建した(537年完成)、そこに総主教座を置いた。
注意 皇帝教皇主義は否定されている かつて世界史教科書では、ビザンツ皇帝と東方教会の関係を皇帝が教会の首長を兼ねる政教一致の形態、あるいは皇帝が教会を常に支配下し、皇帝が教皇の役割を果たしていたという意味で皇帝教皇主義として説明していた。この説明は、最近の研究の結果、現在では否定されている。皇帝は世俗界を統治し、教皇(東方教会では総主教)は霊的世界(信仰の世界)を司るとされ、互いに補うものとされていた、というのが一般に認められるようになっている。つまり、「皇帝教皇主義」という用語は取り上げられなくなっている。
それによって東西教会の関係も一旦修復されたが、その後もブルガリア人への布教を巡る争いや、教義上、典礼上の違いが明確となり、双方の教会の論争は溝を深くしていった。結果的には、1054年に互いに相手を破門し合うかたちでキリスト教会の東西分裂が確定することとなる。
9世紀ごろからギリシア正教はギリシア人宣教師キュリロスらの活動によってスラヴ人やブルガリア人への布教が進み、988年にキエフ公国の大公ウラディミル1世がギリシア正教に改宗した。ロシア国家はモンゴル人の支配の後、13世紀にモスクワ大公国が成立し、キエフの府主教座は1326年にモスクワに移り、後にロシア正教会としての発展の基礎がつくられた。
なお、コンスタンティノープルが陥落した後、オスマン帝国はハギア=ソフィア大聖堂にあった総主教座を、現在のイスタンブル市街の北西のファナル地区に移した。そのため17世紀末には総主教庁もファナルと呼ばれるようになった。
注意 1589年にモスクワに総主教座がおかれているが、これはギリシア正教のすべてを統括する総主教ではない。上述のようにコンスタンティノープル総主教はイスタンブルに残っており、そこがモスクワの総主教としての独立を認めたのがこの時である。したがって、「総主教座がモスクワに移った」という説明は正しくない。 → ギリシア正教の項を参照
東西教会の和解 コンスタンティノポリス総主教は教会一致運動(エキュメニズム)には熱心に取り組んでいる。総主教アテナゴラス1世は1965年12月7日、ローマ教皇パウロ6世と会談し、1054年の教会の東西分裂における相互破門はようやく破棄することで合意、911年ぶりに和解が成立した。<久松『同上書』p.84>
まず佐藤氏はカトリック教会とギリシア正教会の教会組織構成原理の違いを、カトリック教会を「銀行方式」、ギリシア正教会を「そば屋方式」とわかりやすく説明している。銀行方式とは本店―支店の関係でローマ教皇(ヴァティカン)とカトリック教会は本店であるローマ教会にすべて従わなければならない。それに対して「そば屋方式」は「のれん分け」であり、ギリシア正教会の場合がそれにあたる。コンスタンティノープル総主教からのれんを分けてもらった総主教がロシア正教会のモスクワ総主教だ。その経緯は、コンスタンチノープル総主教らが、1589年にモスクワに「のれん分け」をし、モスクワ総主教庁が生まれた。1686年にコンスタンチノープル総主教庁は、ウクライナ正教会はモスクワ総主教庁の管轄に属すると決定した。今回、それを撤回し、ウクライナ正教会に自治権を与えた。これは単なる宗教問題にとどまらず、強い政治性を帯びている。佐藤優氏の指摘に依れば、これは単なる宗教上の問題ではなく、「NATOとロシアの代理戦争」なのだ、と言うことになる。産経新聞ネット版 【世界舞台裏】2018/10/21
ロシア正教会は1917年のロシア革命以来弾圧を受け、多くの主教が西側に逃れた。コンスタンチノープル総主教はそれを支援してきた。ソ連崩壊後、ロシア正教会は復興し、現在はプーチン政権と密接な関係が生まれている。ところが、今度は2014年のクリミア危機でクリミアがウクライナからロシアに編入されたことで、ウクライナとそれを支持するNATO諸国とロシアの対立が深刻になった。今回のコンスタンティノープル総主教のウクライナ正教会のロシア正教会からの分離を認める決定は、ロシアへの挑発だとしてプーチン政権は強く反発している。
現在のギリシア正教では、「コンスタンティノポリス全地総主教庁」(総主教座)と言われ、独立正教会のひとつとして存続している。ここでは高校の教科書などで使われるコンスタンティノープル教会として説明する。
コンスタンティノープル総主教 コンスタンティノープル教会は、その成立と重要性の根拠を、五山の他の教会のようなイエスの使徒たちによる創設ではなく、コンスタンティヌス大帝が330年にこの地を「新しいローマ」として帝国の首都にしたという政治的状況に置いている。380年にキリスト教が国教となったことで、首都の教会としての指導的役割が強まり、381年のコンスタンティノープル公会議(第二回全地公会議)でローマ教会に次ぐ地位を与えられた。451年のカルケドン公会議(第4回全地公会議)では、名誉上ローマと同等の地位を認められた。そして6世紀には東方正教における第一位の地位を表現する「全地総主教」という呼称が使用されるようになった(一般に略称としてコンスタンティノープル総主教という)。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.192-193>
ユスティニアヌス帝 6世紀のユスティニアヌス帝は地中海世界にかつてのローマ帝国の領土を再現するなど、ローマ法大全を制定するなど帝国の権威を高めると共に、熱心なキリスト教の保護者として、首都コンスタンティノープルにハギア=ソフィア大聖堂を再建した(537年完成)、そこに総主教座を置いた。
参考 ビザンツ皇帝と教会の関係
中世の西ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇は、聖職叙任権を巡って厳しい対立関係にあったが、ビザンツ皇帝とコンスタンティノープル教会(東方教会)との間には、基本的にはそのような対立関係はなく、両者の関係はほぼ良好な関係を保った。注意 皇帝教皇主義は否定されている かつて世界史教科書では、ビザンツ皇帝と東方教会の関係を皇帝が教会の首長を兼ねる政教一致の形態、あるいは皇帝が教会を常に支配下し、皇帝が教皇の役割を果たしていたという意味で皇帝教皇主義として説明していた。この説明は、最近の研究の結果、現在では否定されている。皇帝は世俗界を統治し、教皇(東方教会では総主教)は霊的世界(信仰の世界)を司るとされ、互いに補うものとされていた、というのが一般に認められるようになっている。つまり、「皇帝教皇主義」という用語は取り上げられなくなっている。
ローマ教会との分離
7世紀以降、イスラーム教が急速に成長し、ビザンツ帝国の東部を脅かすようになると、ビザンツの支配を守るためにはキリスト教信仰も強固にする必要が出てきた。8世紀には例外的に強大な権力をにぎったビザンツ皇帝レオン3世は、教会への統制を強め、726年に聖像禁止令を出した。それに対してローマ=カトリック教会側は、聖像を使用してゲルマン人への布教を続けていたこともあって、反発した。こうして始まった聖像崇拝問題はローマ教会との対立を生み、ビザンツ帝国ではで激しい聖像(イコン)擁護派への弾圧が行われたが、結局その根絶は難しく、擁護派も勢いを取り戻し、843年には聖像禁止令は取り消され、イコン使用が認められた。それによって東西教会の関係も一旦修復されたが、その後もブルガリア人への布教を巡る争いや、教義上、典礼上の違いが明確となり、双方の教会の論争は溝を深くしていった。結果的には、1054年に互いに相手を破門し合うかたちでキリスト教会の東西分裂が確定することとなる。
ギリシア正教の広がり
そのころになると、ビザンツ帝国は、かつてのローマ的要素はほぼ消滅し、7世紀にはすでに宮廷内ではギリシア語が公用語とされており、ギリシア化が進んだ。こうして東方教会は「ギリシア正教(ギリシア正教会)」といわれるようになり、コンスタンティノープル教会はその総本山としての役割をもつようになる。9世紀ごろからギリシア正教はギリシア人宣教師キュリロスらの活動によってスラヴ人やブルガリア人への布教が進み、988年にキエフ公国の大公ウラディミル1世がギリシア正教に改宗した。ロシア国家はモンゴル人の支配の後、13世紀にモスクワ大公国が成立し、キエフの府主教座は1326年にモスクワに移り、後にロシア正教会としての発展の基礎がつくられた。
オスマン帝国支配下の総主教庁
1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国そのものが滅ぼされたが、総主教庁はその重要性を失うことはなかった。オスマン帝国は総主教をスルタンに対して責任を持つ正教側の家臣の代表として信頼を置いた。しかし、メフメト2世に始まる一定の金額(ペシュケシュという)を払えば総主教就任を認める習慣はその後も続き、金額も次第に高額となり、そのため総主教は17世紀に57回も入れ替わるなど、スルタンに操られる存在となった。なお、コンスタンティノープルが陥落した後、オスマン帝国はハギア=ソフィア大聖堂にあった総主教座を、現在のイスタンブル市街の北西のファナル地区に移した。そのため17世紀末には総主教庁もファナルと呼ばれるようになった。
注意 1589年にモスクワに総主教座がおかれているが、これはギリシア正教のすべてを統括する総主教ではない。上述のようにコンスタンティノープル総主教はイスタンブルに残っており、そこがモスクワの総主教としての独立を認めたのがこの時である。したがって、「総主教座がモスクワに移った」という説明は正しくない。 → ギリシア正教の項を参照
ギリシア独立とコンスタンティノポリス総主教庁
1821年に始まったギリシア独立戦争によって、1830年のロンドン議定書でギリシアは独立を勝ち取りギリシア王国が成立した。しかし、イスタンブルはコンスタンティノポリス総主教庁のあるファナル地区も含めてトルコ領にとどまったていたため、独立国家となったギリシアは、自国の教会をコンスタンティノポリス総主教庁から独立させることを望み、1833年に成功した。新生ギリシア王国内の正教会は、アテネ大主教を首座として独立し、1850年にコンスタンティノポリス全地総主教庁もギリシア正教会(ヘラス正教会)の独立教会位を承認した。(判りづらいかもしれないが、「ギリシア正教」はローマ=カトリック教会のようにひとりの教皇が最高位に君臨して全世界の聖職者を支配する、と言うことではないことが重要。コンスタンティノポリス正教会、ロシア正教会などがそれぞれ独立教会であり、ギリシア正教会もその一つとなったのである。) → ギリシア正教参照Episode ギリシア独立で殉教した総主教
1821~30年のギリシア独立戦争は、当時の最も大きな国際紛争のひとつであった。それによってギリシアは1453年のビザンツ帝国滅亡以来のトルコ人の支配を終わらせる悲願であったが、同時にオスマン帝国にとっては大きな領土の損失であり、衰退の始まりと認識されたので、ギリシア独立は何としても阻止しなければならなかった。この戦いの時、ギリシア正教の指導者コンスタンティノープル総主教が痛ましい犠牲となっている。日本ではあまり知られていないが、次のようなことが起こっている。(引用)トルコ人たちはこの独立運動の責任をコンスタンティノポリス総主教グレゴリオス5世に負わせ、残酷な報復に打って出た。彼は1821年の復活徹夜祭が終わった後、スルタンの命で捕らえられ、総主教庁の扉に釘付けにされ、その屍は三日間晒された。このことから、グレゴリオス5世は正教会によって国の殉教者(正教用語では「致命者」)として記憶されるようになった。彼の殉教を記念するため、総主教庁の正門は1821年に溶接されて閉ざされ、現在もなお閉ざされたままである。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.195>
コンスタンティノポリス総主教庁の現状
かつて強大な権勢を誇っていたコンスタンティノポリス総主教庁は、今日、トルコ領内にひっそりと残存しているに過ぎず、総主教の政治的役割はもはや過去のものとなった。正式名称たる「新ローマなるコンスタンティノポリスの大主教にして全地総主教」の管轄下にはトルコの四つの主教区(全体で信徒わずか1万)と、ロードス島などの島々、「修道院共和国」と呼ばれる聖山アトスの修道院などが属し、クレタ島は半自治的教区となっている。東西教会の和解 コンスタンティノポリス総主教は教会一致運動(エキュメニズム)には熱心に取り組んでいる。総主教アテナゴラス1世は1965年12月7日、ローマ教皇パウロ6世と会談し、1054年の教会の東西分裂における相互破門はようやく破棄することで合意、911年ぶりに和解が成立した。<久松『同上書』p.84>
NewS 正教会による代理戦争
2018年10月11日、コンスタンティノープル総主教庁は、イスタンブルで開かれた主教会議(シノド)で、ウクライナ正教会を承認し、同正教会に対するロシア正教会の管轄権を認めないと決定した。これはウクライナ正教会のロシア正教会からの独立を事実上認めたものである。この日本人には判りにくいニュースについて、作家(もと外務省職員、ロシア問題が専門)の佐藤優氏が解説している。まず佐藤氏はカトリック教会とギリシア正教会の教会組織構成原理の違いを、カトリック教会を「銀行方式」、ギリシア正教会を「そば屋方式」とわかりやすく説明している。銀行方式とは本店―支店の関係でローマ教皇(ヴァティカン)とカトリック教会は本店であるローマ教会にすべて従わなければならない。それに対して「そば屋方式」は「のれん分け」であり、ギリシア正教会の場合がそれにあたる。コンスタンティノープル総主教からのれんを分けてもらった総主教がロシア正教会のモスクワ総主教だ。その経緯は、コンスタンチノープル総主教らが、1589年にモスクワに「のれん分け」をし、モスクワ総主教庁が生まれた。1686年にコンスタンチノープル総主教庁は、ウクライナ正教会はモスクワ総主教庁の管轄に属すると決定した。今回、それを撤回し、ウクライナ正教会に自治権を与えた。これは単なる宗教問題にとどまらず、強い政治性を帯びている。佐藤優氏の指摘に依れば、これは単なる宗教上の問題ではなく、「NATOとロシアの代理戦争」なのだ、と言うことになる。産経新聞ネット版 【世界舞台裏】2018/10/21
ロシア正教会は1917年のロシア革命以来弾圧を受け、多くの主教が西側に逃れた。コンスタンチノープル総主教はそれを支援してきた。ソ連崩壊後、ロシア正教会は復興し、現在はプーチン政権と密接な関係が生まれている。ところが、今度は2014年のクリミア危機でクリミアがウクライナからロシアに編入されたことで、ウクライナとそれを支持するNATO諸国とロシアの対立が深刻になった。今回のコンスタンティノープル総主教のウクライナ正教会のロシア正教会からの分離を認める決定は、ロシアへの挑発だとしてプーチン政権は強く反発している。