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黄河文明

古代文明の一つ。黄河流域の文明。現在は中国文明に包含させる。

 紀元前5000年頃から、黄河の流域の黄土地帯雑穀を中心とした農業生産が始まったことが仰韶文化の発見などから明らかになった。この中国の新石器時代の文化は彩文土器(彩陶)を持ち、磨製石器を使用する前期新石器文化である。次いで前3000年代になると、黄河下流に黒陶を標識とする竜山文化が後期新石器文化として出現し、やがて青銅器文明の殷王朝が黄河中流に現れる。

最近は中国文明に含めている

黄河流域に発生した新石器文化とそれを継承した都市文明は、総称して黄河文明と言われ、四大文明の一つとされてきたが、最近ではほぼ同じ時期に長江流域でも新石器文化が認められるので、黄河・長江文明(河江文明)、または「中国文明」ととらえることが一般的になっている。

黄河文明という見方

 黄河文明が重視されるようになったのは、ドイツ人の地理学者リヒトホーフェンが、中央アジアから中国に至るルートを1877年に「絹の道」と名づけ、中国が秦嶺山脈によって南北に分断されていることを発見し、山脈の北側、とくに黄河流域のコムギ栽培の豊かさに注目して、ここを中国の古代文明の発祥地であると指摘したことに始まる。この見解は20世紀に入るとアメリカ人の農業経済学者ジョン・ロッシング・バック(『大地』の作者パール・バックの夫)が1929年から中国の農業を調査し、稲作の北限ラインを定め、その北をコムギ地帯であるとした。現在では中国のコムギ地帯と稲作地帯を分ける線は年間降水量1000mの等降水量線と一致する秦嶺山脈と淮河を結ぶライン「秦嶺・淮河線」と言われている。1921年にはスウェーデンの地質学者アンダーソンが仰韶遺跡を発掘しており、黄土が広がるコムギ地帯が中国の文明の発生地であると考えられるようになった。<青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』興亡の世界史① 講談社学術文庫 p.245>
 しかし、1970年代から、長江流域の河姆渡遺跡などで、仰韶期あるいはそれよりも古い稲作文明の存在が報告されるようになり、黄河文明を中国文明の発生の地とする見方は修正がせまられ、現在ではその両者を含めて中国文明と捉えるようになっている。また中国の考古学の発展で、より詳細な地域的文明の編年が進んでいる。
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