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三星堆

中国の四川地方で、独自の発達を遂げた青銅器文明の遺跡。両目の飛びだした仮面など、独特な携帯が見られるが、現在は殷の青銅器文化圏のと同時期の中華文明の源流の一つといる。

三星堆遺跡出土の仮面
三星堆遺跡出土の青銅製仮面
 1986年に長江上流の四川省の成都の北方で発掘された遺跡(さんせいたい、と読む)。東西約1600~南北約2000mの城壁を持つ城址と、そのそばの祭祀坑が発掘され、いままでの黄河文明とは違った青銅器文明の存在が明らかとなり、世界中を驚かせた。この地は後の三国時代の蜀の国があったところで、それ以前から黄河流域とは違った文化と政治世界を持っていたものと考えられる。三星堆から出土した青銅器には、眼の突き出した異様な仮面や、人頭像、立人像などが見られる。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 講談社 2003 p.351-353 右図は同書p.315> → 長江文明

最近の研究から

 長江上流の成都平原で発見された三星堆文化は、その特異な青銅器の器形や表現から、その独自性が強調されていたが、最近ではまったく独特なものではなく、殷(商)の青銅器文化の一変形と考えられるようになった。それは、研究が進んだ結果、青銅器の製法としては殷と同じく外范分割法を用いており、素材の青銅の鉛同位体比の分析によって殷王朝の青銅器と同一の鉱山の原料が使われていたことが判明したからである。<竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 山川出版社 2010 p.65>

縦目仮面と蜀の文化

 三星堆遺跡の出土品の中で最も印象的なのが、両目が異様に飛びだした青銅製の仮面がある。これは「縦目仮面」といわれているが、『華陽国志』という書物との関連が注目されている。『華陽国志』は東晋の時代の書物で、現在の四川省・雲南省・貴州省などの地域の歴史や地理をまとめたもの。その中の「蜀志」編に「蜀侯蚕叢有り、其の目は縦にして、始めて王を称す」という記事があることから、縦目仮面ははじめて蜀王となった蚕叢をかたどっているのではないか、とされている。は東周の時代に封じられて諸侯となり、戦国時代には戦国の七雄に対抗して帝号さえ称した。この古蜀王の伝承が三星堆遺跡と何らかの関係があるのではないか、と考えられている。
 三星堆遺跡の出土物は縦目仮面や立人造など独自性が強いものもあるが、その他には他の地域の文化との共通性が見いだせるので、決して他の文化圏から孤立した存在ではなかった。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社 p.81-83>

「中華文明」の源の一つ

(引用)近年、中国の文明は黄河の中流域(いわゆる中原)で発生してそれが周辺地域へと広がっていったといような一元的なものではなく、黄河流域や長江流域のほか、現在の中国東北地方と内蒙古一帯、あるいは華南の珠江デルタなど、複数の地域で多元的・同時並行的に発生したという理解が一般的になっている。三星堆遺跡が位置する長江上流の四川盆地もそうした地域のひとつに数えられる。
 中国の研究者の中にはさらに議論を進めて、三星堆文化は多元的な「中華文明」の源のひとつであり、戦国の秦によって蜀王国が滅ぼされた後は、漢文化と融合して「中華民族」の文化の一部分になったと評価する動きもある。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社 p.91>