良渚文化
長江下流の新石器時代の後期を中心とした稲作農耕文化。
中国の長江の下流域の浙江省一帯にひろがる、良渚遺跡を代表とする新石器時代後期の文化。前3300年~前2300年頃に稲作農業を発達させ長江文明の存在を示している。良渚遺跡は浙江省余杭市にある。長江下流にある太湖周辺の浙江省から江蘇省にかけて同時期の遺跡が散在しており、それらを総称して良渚文化という。特徴は水田農耕の様々な石器とともに、多彩・多様な玉器(ひすいなどの石を磨いて作る持ち主の威信を示す財)が出土していること、それらを副葬した墳丘墓が作られていることなどである。
良渚文化で最も人目をひくのは玉器である。材料は軟玉で、擦切法や穿孔法によって形を切り出し、全体を磨きあげて光沢を出す。表面には浅い肉彫りや細かな線刻によって人面や神人などの文様を表している。この文様は何らかの神話世界を表しているのであろうが、その内容はわからない。形は琮(そう)・壁(へき)など多様で、古代中国を通じて最高の玉器技術と言うことができる。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000(初刊1974) 講談社学術文庫 p.84>
良渚文化は紀元前2300年頃、急速の衰退した。原因は不明だが、このころから各地で石製の武器類が多く出土するようになり、あるいは地域的な緊張関係による衝突が繰り返されたのかも知れない。また前3000年紀後半の顕著な温暖化によって良渚文化の栄えた太湖周辺の広い範囲が水没したためとの見方もありうる。<竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 2010 山川出版社 p.23>
良渚文化の玉器
良渚文化の玉器(玉琮)
宮本一夫『神話から歴史へ』より
集約的農業と首長制社会の形成
良渚文化は新石器時代の中期末から後期に属する稲作文化で、稲作農耕がより集約的に発達した姿を示している。まず、この時期の遺跡からはブタが急増する。それ以前はシカなどの野生動物の骨が多かったことに比べて大きな変化である。また農耕に伴う石器には、収穫用の石鎌、田起こし用の石犂、水田の土地をかき混ぜる千篰(せんぶ)など多様化し、灌漑を利用した集約的な水田農耕が行われていたことを示している。遺跡数もこの時期に増加しており、生産性の向上が人口の増加をもたらしたと考えられる。また、墳丘墓や玉類を副葬した墳墓の出現は、階層化が進み、首長が出現したことを示しており、良渚文化期は首長制社会の成立した時期と考えられる。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 2005 講談社 p.149-157>良渚文化は紀元前2300年頃、急速の衰退した。原因は不明だが、このころから各地で石製の武器類が多く出土するようになり、あるいは地域的な緊張関係による衝突が繰り返されたのかも知れない。また前3000年紀後半の顕著な温暖化によって良渚文化の栄えた太湖周辺の広い範囲が水没したためとの見方もありうる。<竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 2010 山川出版社 p.23>