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中国の最初の王朝。『史記』では三皇五帝に次いで禹が建国したと伝え、殷に滅ぼされたとされている。その実在は疑われていたが、最近は考古学上の発見が相次ぎ、中国では実在した最初の王朝として公認されている。日本の学会では、青銅器文化の二里頭文化の時期に該当するが、甲骨文字が出土していないので国家の発生とは認めておらず、依然として殷を最古の王朝としている。

 司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、殷(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子の桀は暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され殷王朝に交代したという。日本においては、夏王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。現在のところ、高校の世界史でもその程度の説明にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、夏王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている(次の記事を参照)。最近では夏王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。日本の学界でも「夏王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが予想されている。

夏王朝実在説

 この夏王朝は、黄河中流域における農耕社会の形成の中で造られた伝説的な王朝であって実在したものではないと考えられていたが、最近黄河中流の竜山文化を夏王朝の時代とする主張も有力になっている。現在注目されているのは、1950年代に発見された、河南省の二里崗遺跡(前1600年頃)と二里頭遺跡(前2000年頃)の青銅器文化である。これらの遺跡で殷墟よりも古い青銅器が見つかっている。二里崗遺跡は殷時代にあたるとされており、それより古い二里頭遺跡を夏王朝のものとする説も有力になっている。二里頭から見つかっている城壁を夏王朝の都とする説がかなり有力となっている。

Episode 夏王朝の都発見か

 2004年7月21日付『朝日新聞』朝刊は、「中国の伝説上、最古の夏王朝(紀元前21世紀~同16世紀)の都があったと推定されていた河南省偃師市の「二里頭遺跡」から、大規模宮殿を持った古代都市跡がこのほど発見された。中国科学院考古学研究所などは、今から3600年以上前の中国最古の都ととしており、夏王朝が殷王朝(紀元前16世紀~同11世紀)に先立つ王朝として実際に存在した可能性が一段と強まった。」と新華社通信のニュースを掲載した。遺跡からは面積10万平方メートルに及ぶ整然とした都市であり、宮殿跡は東西300m、南北360~370m、城壁の幅約2m、順序よく配列された建築群や、青銅器の祭祀用品が見つかっているという。

参考 中国の教科書での夏王朝

二里頭遺跡の宮殿復元図
二里頭遺跡の宮殿復元図
 中国の中学校歴史教科書では、夏王朝について、原始社会から奴隷制社会に移行に伴って紀元前21世紀に成立した中国史上最初の世襲制王朝である、と定義している。その最初の王都の陽城の位置は不明であるが、最近の発掘によって河南省登封県の城跡が有力とし、夏の後期の宮殿跡が河南省の二里頭遺跡であるとしている。<『世界の教科書シリーズ5中国中学校歴史教科書・中国の歴史入門』小島晋治/並木頼寿監訳 明石書房 p.76 右図も同書より>

二里頭遺跡とは

※二里頭遺跡が夏王朝の都であるとする根拠は次のようなことが挙げられている。
  1. 遺跡の中心の宮殿区は回廊で囲まれた巨大な正殿と広い中庭をもち、後の中国歴代王朝の宮殿と基本的に同じ構造と規模をもっている。王を中心として多数の臣下が執務する宮廷儀礼の場であったことが想定される。
  2. 宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。また多種多様な青銅製容器は宮廷における飲酒儀礼で用いられたものである。これらはこの時期に宮廷儀礼、ひいては「礼制」を整えた王朝の成立を意味している。
  3. 二里頭の宮殿建設には、延べ20万人ほどの動員が必要とされたと考えられるので、労働力の国家的な動員があったと想定される。また、二里頭文化期には銅製武器や鏃などが急増しており、国家権力の成立に伴う戦闘が拡大したと考えられる。
これらの事実から、岡村秀典氏は「夏王朝」は実在したと断定している。<岡村秀典『夏王朝 中国文明の原像』2003初版 講談社学術文庫版 2007年 p.266-273>

初期国家論

 夏王朝の実在は肯定的に見られるようになってきたが、その性格についてはまだ議論が定まっていないようだ。夏王朝は実在したとしても、それは本格的な古代国家であったのではなく「初期国家」あるいは「初期王朝」ととらえる見解も出されている。
 宮本一夫氏は、新石器時代終末期に各地に首長権が形成されるようになったが、この首長制社会は初期国家段階とは言えない。次の青銅器時代開始期である二里頭文化期は、文献史料で言う夏王朝期にあたり、文献史料における夏王朝とはこの二里頭文化の政治勢力を指すであろう。二里頭文化期は各地の宗教祭祀を統合して、「礼制」を導入し、身分標識としての酒器を青銅器という貴重な素材で製作し、階層秩序を新たに作ることに成功した。しかしそれはただちに強力な王権の成立という段階にたっしたわけではなく、王権の形成期であり、初期国家形成期または萌芽期と位置づけられる、と述べている。そして本格的な初期国家段階は殷王朝の統治から、としている。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 講談社 2003 p.354-358>
 初期国家とは、文化人類学者のエルマン=サーヴィスが提起した概念で、国家が原始的な状態から次第に複雑、巨大化していく過程の最初の段階とされるもので、王と貴族、平民、奴隷などの階層制度、官僚や司祭者の存在、貢納制度、都城や宮殿の存在、などが指標とされている。<参考 宮本同上書 p.369 /竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 山川出版社 2010 p.42>
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書籍案内

岡村秀典
『夏王朝 中国文明の原像』
2007 講談社学術文庫

宮本一夫
『神話から歴史へ』
中国の歴史1 2007初刊
2020 講談社学術文庫

竹内康浩
『中国王朝の起源を探る』
世界史リブレット 95
2010 山川出版社

佐藤信弥
『中国古代史研究の最前線』
2018 星海社新書