犬戎
中国の北西の遊牧系の民族とされるが詳細不明。前771年に西周の都鎬京を襲撃し幽王を殺害したと伝えられる。
周の西北には漢民族から見た異民族の犬戎(けんじゅう)や狄(てき)が活動していた。前8世紀頃から次第に活発となり、周の西北を侵し始め、犬戎が鎬京を攻撃し、周の幽王を殺害した。そのため前770年には周王室は東遷し、洛邑に移った。中国辺境には古来、北狄(ほくてき)や西戎(せいじゅう)、東夷、南蛮という異民族が活動していたが、文化の程度の高い漢民族から見れば彼らは遅れた野蛮な民族である、ととらえるのが中華思想である。これらの周辺民族はこの後も中国の歴史に大きなインパクトを与え続けることになるが、犬戎の実態はよく判っていないことが多い。
犬戎の一般的見方
すでに周(西周)の中期(正確な年代は不明)の穆王の時、西北(現在の陝西省から甘粛省にかけてか)にいた犬戎に対して征服活動を行ったとされている。犬戎が朝貢をしていたにもかかわらずに強行された征服活動は周辺民族の離反のきっかけになったという。 周の幽王の時期になると王室に内紛が生じ、周王に敵対する側が犬戎を誘って首都鎬京を攻撃し、犬戎は幽王を殺害、その王妃褒姒とともに王室の財宝を奪って引き上げたという。それは前771年のことであり、そのために周は一旦滅亡し、翌年の前770年に王室の一人平王が洛邑に都を移すという周の東遷となり、それ以降を東周と言っている。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫>犬戎の最近の見方
犬戎という語は『史記』に出てくるが、西周時代の出土資料や金石文では「玁狁」(けんいん)にあたると考えられる。彼らは匈奴やモンゴル族のような騎馬遊牧民とされることが多いが、出土金石文の中では彼らは戦車を使っていたとある。戦車(馬に引かせる戦闘用車両)は遊牧民ではなく漢民族が使用していたので、犬戎は純粋な騎馬遊牧民とは考えられない。一説には当時中国北方に広く分布していた農耕民と牧畜民の複合集団の一つであり、生業の面では周の人とほとんど変わらなかったという。また、金石文では幽王の祖父にあたる厲王の時代に盛んに玁狁と戦ったことが出ており、前771年にいたるまでに約百年にわたって抗争が続いていたことがわかる。またその年に彼らが幽王を殺害したことは事実であるが、それ以前から幽王とその子平王の争いは始まっており、彼らが鎬京を攻撃したことだけを周の東遷の原因とするのは正しくない。<佐藤信也『周―理想化された古代王朝』2016 中公新書 p.130-132>