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周の東遷

中国古代王朝の周(西周)が都を渭水流域の鎬京から、東方の黄河中流の洛陽(洛邑)に移したこと。一般に北方からの遊牧民犬戎に侵攻されたため、前770年に東遷したとされている。これ以後を東周とするが、周王は次第に力を失い各地に有力諸侯が自立して争う春秋・戦国時代となる。

 紀元前11世紀後半、殷に代わって中原を支配し、渭水地方の鎬京に都を置いた(西周)は、外征(軍事)と祭祀(儀礼)の両面で強い権威を持ち、封建制の仕組みを通じて諸侯を押さえ、長期にわたって統治を続けた。しかし、前8世紀ごろからその支配体制がゆらぎ始め、前770年の幽王の時に、西北方から侵入した異民族犬戎に襲撃され殺害された。その子平王は犬戎を避けて都鎬京をはなれて東遷し、第二の都であった洛邑に移った。これを周の東遷といい、以降を東周という。これ以来、周王の王権は衰退し、「春秋時代戦国時代」という長い分裂時代に突入する。
 以上の説明は司馬遷の『史記』などの歴史書によって伝えられたことをまとめたもので、従来の教科書、参考書でもこのように説明されていた。

参考 周の東遷の新たな見方

 現在の中国では、歴史学・考古学の発達がめざましく、様々な考古学上の発見が相次いでいる。秦の始皇帝陵の兵馬俑や馬王堆漢代墓のような華々しい発掘だけでなく、多数の木簡や竹簡(簡牘という)、さらに様々な青銅器の器物に刻まれた文字史料(金石文)が多数発見され、それらの解読を通じて古代史像の見直しが進んでいる。日本ではまだ一般化していないが、最初の王朝として夏王朝の存在はいまや定説とされるようになっており、殷や周、秦漢時代の歴史の大幅な書き換えが進んでいる。
 その中で周の東遷については、日本でも次のような説明に変化してきているが、各社の教科書の記述は、新説を取り入れているものとそうで無いもののばらつきが見られる。<この項、代々木ゼミナール教材研究センター世界史の越田氏の指摘によって追加した。>
東遷の理由 従来は異民族の犬戎によって鎬京が攻撃されたことだけを上げていたので、それが直接的要因と理解されがちであった。犬戎の侵攻以外に西周王室の中で幽王の後継者を巡って平王とその異母弟の争いがあったこと、諸侯も間にもそのいずれに付くかで対立があったらしい。また幽王から後継者の座を追われた平王は早くに鎬京(宗周)を離れ、内戦状態になっていた。この周王室の内紛で幽王と対立した平王がもう一つの都である洛邑(成周)を拠点にしたことが後に東遷と言われた事実である。
犬戎の意味 犬戎は史記に現れる民族名であるが、西周当時の出土史料や金石文では玁狁(けんいん)として出てくる。彼らが北方遊牧民という確証はない。出土史料に戦車を使っていたという文もあり、定住し農耕民化した周の周辺民族とみられる。またこのころ突然出現したのではなく、ほぼ1世紀ほど前から活動を展開し、周と争っていたと思われる。
年代 犬戎が幽王を殺害したことは事実であると思われるが、それは前770年ではなくその前年、前771年のことであった。しかし平王が鎬京を出たのはそれよりかなり前であったらしく、洛邑に入った正確な年代についてはわからない。新資料の清華簡『繋年』(清華大学に所蔵される戦国時代の墓から出土したとされる竹簡。2388片ある)によると、幽王の死後別な王が即位したとの記述もあり、平王はすぐに洛邑に入ったのではないらしい。その年代は前738年か、前760年との解釈が出されている。いずれにせよ新資料から言えることは周の東遷の年代は前770年ではなく、それより後だったらしい。どうやら『史記』は前771年前から前740年頃までのできごとを、前770年一年に集約して記述したらしい。
暫定的なまとめ 以上を総合すれば、前770年という年代や犬戎の侵入による、といったことを確定的に書くのは問題があるようだ。現在、最も学説的な表現として落ち着くのは、「前8世紀の前半、周は内紛や外敵の侵入によって都を鎬京から東方の洛邑に移した」という説明であろうか。<佐藤信也『周―理想化された古代王朝』2016 中公新書/同『中国古代史の最前線』2018 海星社新書 p.164-168>

Episode 笑わない美女の話

 西周の最後の王となった幽王には司馬遷の『史記』によれば、次のような話がある。
  幽王には皇后の申后とその間に生まれた太子がいたが、褒姒(ほうじ)という後宮の美女を寵愛し、申后とその太子を廃して、褒姒を皇后とし、その間に生まれた子を太子にしてしまった。褒姒はすこぶるつきの美人だったが、どういうわけか、「別にぃ」という感じでさっぱり笑わない。幽王はなんとか笑わせようと手を尽くしたが、どうしても笑わない。そこである日、一計を案じた幽王は、烽火(のろし)を上げさせた。すると諸侯が天下の一大事、敵が攻めてきたとばかりに王宮に駆けつけたが、敵の姿は見えない。その狐につままれたような顔をしてうろうろする様子が面白かったのか、褒姒がはじめて楽しそうに笑ったので、幽王はその後もちょいちょい烽火を上げてるようになった。諸侯はバカらしくなって本気にしなくなってしまった。やがて皇后を廃された申后の一族は、犬戎などと語らって、鎬京を攻めた。幽王は烽火を上げて諸侯を動員しようとしたが、誰も信ぜず一兵も集まらなかったので、王は殺され、褒姒は捕らえられてしまった。こうして申后の産んだ太子が王位につくことになった。この平王が都を洛邑に遷し西周は終わった。<司馬遷『史記』周本紀 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.85/村松暎『中国列女伝』中公新書 1968 p.116-117 などによる>
※この話は、西周時代の出土資料や金石文には一切現れておらず、言うまでもなく歴史的事実とすることはできない。西周末期の政治の乱れを象徴する説話として司馬遷が取り上げたのであろう。