斉(春秋・戦国)
春秋・戦国時代の有力国の一つ。黄河下流の山東省を支配。春秋時代には桓公が五覇の一人とされ、戦国時代には七雄の一つとされた。最も遅く秦に滅ぼされた
斉(せい)は、周のはじめ、有名な太公望が封じられて以来の由緒ある国で、黄河下流名肥沃な土地と山東半島を含む地域を支配した大国だった。春秋時代には斉の桓公が最も早く、前679年に会盟を主催し、覇を唱えて覇者となり、春秋の五覇の第一とされ、最も栄えた。
覇権を握った斉の威王は都の臨淄に「諸子百家」と言われた思想家たちを集め、一種の王立学士院にあたる「稷下(しょっか)の学」を設立し、多額の資金を支給して学問・思想の研究にあたらせた。その子宣王の時には陰陽家の鄒衍や儒家の荀子らが集まり、最高水準の学術を競う場となった。
周の文王が狩りをしていると、渭水のほとりで釣り針をつけずに釣り糸をたれている老人に会い、不思議に思って話しかけたところ、なかなかの人物なので連れて帰った。どこの誰かもわからない人を連れ帰った王にまわりの人が尋ねると、王は「わが父(太公)が周を栄えさせる聖人として待ち望んだ人物だ」と答えたので、太公望と言われるようになった。はたしてこの人は文王と次の武王に仕えてその師となり、周の繁栄をもたらした。太公望は本名を呂尚。また釣り好きの人を「太公望」というのは、文王との故事による。この文王は、後の儒家に理想的な君主として崇拝された人物である。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版>
戦国の七雄の一つ
桓公の死後、その子たちのあいだで内紛が生じて急速に乱れ、斉の実権は前386年家臣の田氏に移った。それ以後を田斉といい、以前を呂斉という。当時は周王室の権威は全く衰え、大国の一つであった晋が韓・魏・趙の三国に分裂するなど、戦国時代に移行した時期であった。田氏は斉王を唱えて豊かな経済力を背景に戦国の七雄の一つに数えられた。田斉の第三代威王は兵家の孫臏を登用して富国強兵策を進め、前341年に強国の魏を破り、覇権を握った。首都臨淄の繁栄
斉は黄河下流の現在の山東省一帯を支配し、海に面していたので漁業・製塩業が盛んであったため都の臨淄(りんし)は当時最も商業が栄えた都市であった。斉では青銅貨幣として刀銭が流通していた。覇権を握った斉の威王は都の臨淄に「諸子百家」と言われた思想家たちを集め、一種の王立学士院にあたる「稷下(しょっか)の学」を設立し、多額の資金を支給して学問・思想の研究にあたらせた。その子宣王の時には陰陽家の鄒衍や儒家の荀子らが集まり、最高水準の学術を競う場となった。
最後に秦に降伏
斉は西方の秦と並ぶ戦国時代の強国としての地位を築いたが、前284年に北に隣接する燕の名将楽毅に率いられた軍に隙を突かれて侵攻され、都の臨淄も陥落、滅亡は免れたが、次第に衰えた。それでも前230年に韓を滅ぼした秦が次々と統一事業を進める中で、戦国諸国の中で最後まで生き残ったのが斉であった。しかし、前221年に秦軍が迫ると、斉は抵抗することなく降伏し、ここに秦の中国統一が完成した。Episode 太公望の話
周王によって斉に封じられた太公望は、釣り好きの人の代名詞とされるあの人物である。彼は周の武王とその父文王に仕え、周の建国に大きな働きをした人物であったが、周の文王との出会いに次のような話がある。周の文王が狩りをしていると、渭水のほとりで釣り針をつけずに釣り糸をたれている老人に会い、不思議に思って話しかけたところ、なかなかの人物なので連れて帰った。どこの誰かもわからない人を連れ帰った王にまわりの人が尋ねると、王は「わが父(太公)が周を栄えさせる聖人として待ち望んだ人物だ」と答えたので、太公望と言われるようになった。はたしてこの人は文王と次の武王に仕えてその師となり、周の繁栄をもたらした。太公望は本名を呂尚。また釣り好きの人を「太公望」というのは、文王との故事による。この文王は、後の儒家に理想的な君主として崇拝された人物である。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版>