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臨淄

中国の戦国時代の斉の都で、商業が発達していた。諸国から諸子百家の弁論家が集まった。

 りんし。山東省中部の古代城郭都市で、戦国時代の都として繁栄した。『戦国策』によれば7万戸(人口50~60万人)を数える大都市だった。市場を中心とした市街地には闘鶏やドッグレースの娯楽場があり、娯楽を求める人々でごった返し、また諸子百家の弁論家があつまってきて盛んに議論をかわし、たいへんなにぎわいだったという。現在は山東省淄博市に含まれるが、全く衰え、小さな地方の町にすぎず、戦国時代の繁栄を示すのは城壁の跡だけである。

稷下の学士

 戦国時代の斉では、紀元前4世紀後半の威王と宣王の時期が最も栄えていた。その時期の臨淄は絹織物業や製塩、製鉄が盛んで、商工業が発達していた。威王と宣王は「臨淄の城門の一つである稷門(しょくもん)の傍らに文化区域を設定し、遠く各国から学者、思想家を招いて、その稷下の文化地域にりっぱな邸宅を建てて住まわせた。かれら学者たちは、卿(大臣)につぐ高級官僚の俸給をもらいながら、決まった職はなにもなく、講堂などに集まって、学問についてお互いに討論しあっていた。こうして、天下の有名な学者、思想家が集まり、稷門のほとりに住まっていたので、世にこれを稷下の学士という。」ここに集まったのは孟子荀子などの儒家をはじめ、諸子百家の代表的な流派がすべて含まれていた。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版 p.467>
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貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫