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蘇秦/合従

諸子百家の一つ縦横家の一人。秦と対抗するために六国の合従策を主張し、六国の宰相を兼ねた。

 戦国時代に活躍した諸子百家である政略を論じた縦横家の一人。まず強国のに対して他の6国が連合してあたるべきであるという合従策(がっしょうさく)を主張し、秦との個別の同盟の締結を説く連衡策の張儀と対抗した。これらの議論を合従・連衡という。その伝記は、『戦国策』と『史記』に詳しい。

Episode キリで太ももをさして眠気を覚ます猛勉強

 『戦国策』にはこういう話が載っている。蘇秦は、秦王に説き、十回も意見書を提出したが用いられなかった。滞在費もなくなったのでやむなく故郷に帰った蘇秦は、やつれ果てて顔もどす黒く、いかにも零落していた。それを見た妻は機織りの手を休めようともせず、兄嫁は飯を炊いてくれず、父母は口をきこうともしない。蘇秦は「妻は私を夫とも思わず、兄嫁は私を義弟とも思わず、父母は私を息子とも思わない。こうなったのも、すべては私の至らぬせいだ。」と嘆息した。
 発憤した蘇秦は、猛勉強を開始。夜中に太公望の兵法書を読みふけって、君主の心を読んで受け入れられる術(揣摩の術)を身につけようと没頭した。書物を読んで眠くなると、錐(キリ)で自分の太ももを突き刺し、その血はかかとまで流れた。一年たって揣摩の術を会得した自信を得、趙王のもとに赴き、手のひらを打ちながら熱心に説得した。趙王はよろこび、蘇秦を宰相に取り立てて、その合従策を採用した。そのためしばらくは秦も函谷関から出られず動きを封じられた。
 蘇秦の名声は各国に及び、天下には対抗できるものもないほどになった。あるとき楚王に遊説しようと、故郷を通ることになった。それを知った父母は部屋をかたづけ、道を清め、楽隊を並べ、飲食の支度をして郊外三十里まで蘇秦を出迎えた。妻は目を伏せて蘇秦を見ることができず、兄嫁ははいつくばってにじり寄り、平謝りに昔のことを謝った。「姉上、昔は威張っていたのに、今はどうしたのですか」と問うと、兄嫁は「末っ子のあなたが今はお金持ちになったらですわ」と答えた。それを聞いた蘇秦は、「ああ、貧乏だと両親でさえ相手にしてくれない。金持ちになれば親戚まで恐れいる。この世に生まれたからには、地位や金銭はおそろかにできないものだ」と述べた。このことから「貧窮なれば、父母も子とせず」という言葉が生まれた。<守屋洋訳『戦国策』中国の思想 徳間文庫版 p.44-47>

六国の宰相を兼ねる。

 『史記』列伝によると、蘇秦は東周の洛陽に生まれ、斉で鬼谷先生に学んだという。戦国策の家族に無視された話は、放浪の後、故郷に帰ったときのこととされている。発憤して猛勉強し、「揣摩の術(揣摩憶測の揣摩)」を身につけ、まずに向かったが、恵王には用いられなかった。それは、秦が孝公のとき、商鞅を用いて改革を行ったが抵抗勢力が反発し、商鞅は結局国外に逃亡しようとして殺されるということがあったので、遊説の士を登用することに懲りていたからだった。そのため秦を去った蘇秦は、趙に行ったが歓迎されず、ようやく燕の文侯が「小国燕に隣り合う斉と趙がきみの説を受け入れるなら、国をあげてきみの説に従おう」と約束した。資金を与えられた蘇秦は、趙・韓・魏・斉を次々と訪れて巧みな弁舌で王に説きまくった。最後に楚王も蘇秦の説得に応じて加わることとなり、秦以外の六国は南北に合従して協力することとなった。蘇秦は合従同盟の長となり、六カ国で同時に宰相となった。

合従策

 合従策はいわば集団安全保障の考えであり、「一戦も交えずに秦を抑えることができる」というものだったので、国防費の増大に悩む各国に受け入れられたのだ。こうして、国際政治の寵児となって各国で合従策をといた蘇秦は、富と地位を獲得する。戦国策の晴れて故郷に錦を飾ったのは、合従策の成功をひっさげて燕に帰るときのこととされている。そかしそれは貧しい家の末っ子に産まれた蘇秦が、なんとか廻りから馬鹿にされないようになりたいという願望から、猛勉強した結果、編み出した説得術の成果であった。
 蘇秦の合従策によって、15年間は秦も動けず、平和が保たれた。しかし、秦は対抗策として巧妙な遠交近攻という個別撃破策を取り始めた。それは見事に的中して、六国の集団安全保障体制の足並みが乱れてくる。すると蘇秦は各国の反目を解消しようと暗躍するが、その権謀術数は次第に信用を失っていく。蘇秦の権勢をねたむ各国の大臣連中の中に蘇秦をそしるものが現れる。『史記列伝』には蘇秦は燕王の母と私通していたとも書かれており、評判は良くなかったようだ。とうとう燕王が代替わりすると、刺客に襲われて命をなくした。策士らしい横死であった。なお列伝によると蘇秦には蘇代と蘇厲という二人の弟がおり、いずれも兄に倣って遊説の術を学び、諸国の王に取り入ろうとしたという。<小竹文夫・武夫『史記5 列伝一』ちくま学芸文庫版 p.110-145>

Episode 策士三兄弟

 蘇秦は前360~320年代に活躍し、前317年に殺されたようだが、さまざまな史料では、前286年頃にも生存してた記録があり、飛び抜けて長命だったことになる。これは、どうやら蘇秦の二人の弟蘇代と蘇厲も、当時は「蘇子」と言われてていたことから生じた混乱らしい。中国古代史料ではよくある混乱であるらしく、前100年以降に編纂が始まった司馬遷の『史記』が利用した史料もそのような問題があったと指摘されている。家族に冷遇されたというエピソードも蘇秦ではなく、弟の蘇代のことかもしれないという。<平㔟隆郎『世界の歴史2』中華文明の誕生 中央公論社 p.199>
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守屋洋訳
『戦国策』
中国の思想 徳間文庫

小竹文夫・武夫訳
『史記5 列伝一』
ちくま学芸文庫