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張儀/連衡

諸子百家の一つ縦横家の思想家の一人が張儀。戦国時代の秦と個別の同盟を有利とする連衡策を主張し、合従説の蘇秦と対抗した。

 戦国時代に活躍した諸子百家の一つである縦横家の一人。との個別の同盟の締結することによって生き残りを図ろうと説く連衡策を主張し、強国の秦に対して他の6国が連合してあたるべきであるという合従策(がっしょうさく)を主張する蘇秦と対抗した。これらの議論を合従連衡という。 → 『戦国策』

秦に仕える

 張儀は魏の人で、はじめ蘇秦とともに鬼谷先生について縦横家として学んだ。蘇秦は才能では張儀に及ばないと思っていたが、たまたま先に趙王に用いられることになった。蘇秦は秦に対して他の6国が協力して当たることを説く合従説を唱えていたので、秦がどこかを攻めて合従が崩れることを恐れ、秦王を動かないように説得できる人物を探した。そこで目をつけたのが張儀だった。蘇秦は名を明かさずに張儀に資金を援助し、秦に仕えるように工作した。その工作が当たり、張儀が秦の恵王に仕えることになったが、それは蘇秦の大きな誤りとなった。張儀は次第に秦で重く用いられるようになり、さらに宰相にまでのぼり、他の6国の対立をうまく煽り、それぞれに秦との連衡に向かわざるを得ないように仕向けていった。

連衡策

 張儀は、合従策は蘇秦の口先で成り立っているにすぎない、そんなものに国の運命をゆだねるのは危険だ、秦と結んで近隣の国の攻撃に備えた方がいい、と各個撃破にかかったのだった。いわば合従策は集団安全保障体制を形成し、形の上では盟約を結んでいる、燕、斉、韓、魏、趙、蘇の南北の6国であったが、実は互いに隣接する間ではつねに領土問題をもっていた。いざとなりの国と戦うことになったら、離れているが圧倒的な強国である秦とむすんだ方が有利になると内心踏んでいる王も多かった。そんなことから、蘇秦の人気が落ちて殺されてしまうと、張儀のかねてからの薬が効き始め、次々と諸国は連衡に転じていった。現代に引き合わせて考えてみれば、国連などの集団安全保障など現実的でない、アメリカとの集団的自衛権を行使し核の傘に守ってもらって中国や北朝鮮の脅威に備えるべきだ、というのがどうやら連衡策であろう。

Episode 舌さえあれば安心だ

 『史記列伝』の張儀列伝の冒頭では、おもしろい話が伝えられている。学業を終えた張儀が諸侯に遊説して歩いていたとき、楚の宰相と酒を飲んだが、たまたま宰相の玉がなくなった。宰相の従者はいかにも貧乏な張儀を疑い、捕らえてめった打ちにした。しかし白状しないので打つのをやめた。傷だらけになった張儀を見て妻が「ああ、あなたが読書遊説などしなかったら、こんな辱めを受けることもなかったろうに」と嘆くと、「わしの舌を見てくれ。まだ、あるかどうか。」妻が笑って「ありますよ」というと、「それなら安心だ」と言った。いかにも口舌の徒であった縦横家、諸子百家らしい話である。
 司馬遷は張儀伝の最後に合従連衡を説いた蘇秦と張儀について、こんなことを言っている。「張儀の策謀は蘇秦よりもはなはだしかったが、世間が張儀より、むしろ蘇秦を憎むのは、蘇秦の没後、張儀が蘇秦の短所を宣伝暴露して、自己の遊説を有利にし、連衡を成就したからである。これを要するに、この二人は、真に危険な人物である。」<小竹文夫・武夫『史記5 列伝一』ちくま学芸文庫版 p.180>

縦横家の末路

 張儀は、有力な同盟関係にあった斉と楚を離反させるために楚の懐王に領地六百里四方を割譲しようと同盟を働きかけた。楚では屈原が反対したが、懐王は張儀の言葉を受け入れ、斉との同盟を破棄し、屈原は失脚させられた。ところが張儀は約束したのは六里四方の土地だとうそぶく。挑発に乗ってしまった懐王は秦を攻めたが「藍田の戦い」で大敗してしまった。張儀は和議を結ぶため楚に入り、謀略で懐王との同盟を結ぶことに成功した。
 張儀は巧妙な謀議を駆使して、遠交近攻の手順で各個撃破をはかり、合従説=反秦同盟を崩していったが、彼を登用した秦の恵文王が死去し、武王が即位すると、武王は張儀を嫌っていたので、張儀は秦を離れ、魏の宰相となったが、一年後に死んだ。このように、縦横家と称される戦略家は一国に準ずるのではなく、自分の策を採用してくれる国を求めて一匹狼で渡り歩いていたのだった。