屈原
中国の前4~前3世紀、戦国時代の楚の詩人。『楚辞』の作者。楚を追われ、諸国を放浪して、汨羅で入水した。中国最初の詩人と言える。
屈原 くつげん(前340年?~前278年ごろ)。名は平、字は原、あるいは名は正則、字は霊均だともいう。戦国時代の楚の政治家、詩人。楚王に信任され、政治に当たったが、当時楚は西方の強国秦に操られていた。斉と結んで秦と対抗しようとした屈原は事敗れて追放され、諸国を放浪する。最後は国を思いながら汨羅(べきら)という川に身を投げて自殺する。屈原は愛国詩人とされ、その歌った詩は『楚辞』にまとめられ、中国文学の最初の傑作ととして古来愛唱されている。中国最初の大詩人とされ、また祖国の楚が衰退するのを嘆いたその詩文から、愛国詩人として現在も人気が高い。
その後、楚の懐王は、秦の張儀の策略によって秦との同盟に踏み切ったものの、挑発されて戦端を開くなど迷走した。結局、再び同盟を結ぶことになって秦に赴いた懐王は捕らえられてしまう。屈原は自らの警告が受け入れられず、楚が秦に思うように操られていることを強い憤りをいだき、その思いを長文の詩「離騒」にぶつけて表現している。次の頃襄王に呼び返されて、政権に復帰したが、やはり屈原を嫌った頃襄王によって江南の地に流されてしまった。ついに前278年、秦軍は楚の都郢を占領され、屈原は絶望のあまり長江の支流のほとり汨羅(べきら)江に身を投じた(前277年とも言う)。
<松枝訳>そもそも天地開闢以前の太古のことを、だれが一体言い伝えたのだろうか? 天と地がまだはっきりと形を成して分かれていなかったと、何を根拠にして考えたのだろうか?<松枝『同上書』 p.127>
屈原は、「離騒」にみるような自叙伝詩を書いていることから、中国で(ということはアジアで)はじめて「自己」を自覚し、表現した人物だったのではないだろうか。また「天問」での天地創造への疑問を表明していることは、はじめて神話的世界観から解き放たれた思想家と言えるのではないだろうか。
ただし、最近の研究では、『楚辞』のどこまでが屈原が実際に書いたのか、について実証的な研究が進んだ結果、その存在についても疑問視されているようだ。
楚国の苦難
楚は、中国南部の長江一帯を勢力に収め、戦国の七雄にもあげられる大国であった。屈原はその楚国の貴族の家に生まれ、懐王に仕え、学識と詩文にすぐれたことから重用された。しかし、当時の楚をとりまく国際情勢は緊迫しており、西方の秦が急速に台頭、それに対して他の六国は、集団的な同盟によって秦に対抗する合従策を採るか、秦との個別の同盟を結んで安全を保つ連衡策を採るか、いずれを採るかという外交上の選択を迫られていた。屈原は日頃からの秦の言動に不審を抱き、北方の斉などとの反秦同盟を維持することを主張したが、親秦派によって讒言され、宮廷から放逐されてしまった。その後、楚の懐王は、秦の張儀の策略によって秦との同盟に踏み切ったものの、挑発されて戦端を開くなど迷走した。結局、再び同盟を結ぶことになって秦に赴いた懐王は捕らえられてしまう。屈原は自らの警告が受け入れられず、楚が秦に思うように操られていることを強い憤りをいだき、その思いを長文の詩「離騒」にぶつけて表現している。次の頃襄王に呼び返されて、政権に復帰したが、やはり屈原を嫌った頃襄王によって江南の地に流されてしまった。ついに前278年、秦軍は楚の都郢を占領され、屈原は絶望のあまり長江の支流のほとり汨羅(べきら)江に身を投じた(前277年とも言う)。
『楚辞』の編纂
屈原が創始した朗唱体の詩は、後世の詩に重大な影響を及ぼした。『楚辞』は彼の作品を主として、当時(前4~前3世紀)の楚国で歌われていた詩を編纂した詩文集である。そこに収められた屈原の作品には、失意のうちに洞庭湖のあたりを流浪すること数年に及ぶ間に詠んだ代表作「離騒」のほかに、「九歌」、「天問」、「九章」などがある。『楚辞』のおよそ3百年前に編纂された『詩経』は周とその周辺の黄河流域で産まれた詩歌集であったが、『楚辞』は、山は緑に、水は豊かで輝かしい太陽の下にある楚国で生まれたので、まことに明るく華やかでのびのびしている。<松枝茂夫『中国名詩選』上 1983 岩波文庫 p.16>参考 屈原の詩
屈原の代表作である「離騒」は、憂いに遭う、別離に愁いる、の意味で、全編93節、2500字に近い長編の、自叙伝詩となっている。冒頭の自分の出生から述べ、次第に国の迷走を憂いる詩句となっていく。また「天問」では95節172問にわたって、天地創造から神話伝説にいたるまでのさまざまな疑問を提出している。その冒頭は次のようなものである。
曰遂古之初
誰傳道之
上下未形
何由考之
誰傳道之
上下未形
何由考之
曰(いわ)く、遂古の初(はじめ)、
誰(たれ)か之(こ)れを伝え道(い)える。
上下(しょうか)、未(いま)だ形あらずと、
何に由(よ)ってか之れを考(かんが)えし。
誰(たれ)か之(こ)れを伝え道(い)える。
上下(しょうか)、未(いま)だ形あらずと、
何に由(よ)ってか之れを考(かんが)えし。
<松枝訳>そもそも天地開闢以前の太古のことを、だれが一体言い伝えたのだろうか? 天と地がまだはっきりと形を成して分かれていなかったと、何を根拠にして考えたのだろうか?<松枝『同上書』 p.127>
屈原は、「離騒」にみるような自叙伝詩を書いていることから、中国で(ということはアジアで)はじめて「自己」を自覚し、表現した人物だったのではないだろうか。また「天問」での天地創造への疑問を表明していることは、はじめて神話的世界観から解き放たれた思想家と言えるのではないだろうか。
ただし、最近の研究では、『楚辞』のどこまでが屈原が実際に書いたのか、について実証的な研究が進んだ結果、その存在についても疑問視されているようだ。
Episoce 屈原と「ちまき」の伝説
屈原が汨羅の淵に身を投じた、その命日は5月5日だったという。そのとき、楚の人たちは屈原の死を悲しみ、糯米(もちごめ)を蒸した粽(ちまき)を作って川に投げ、供養したという。一説には、魚がその体をついばまないようにするためだったともいう。これが、5月5日、つまり端午の節句に「ちまき」を食べる習慣の始まりだという。また、投身した屈原を救おうと、近くの漁民が龍舟(ドラゴンボート)を漕ぎだしたが、間に合わなかったことを悔やみ、それからドラゴンボート競争が始まった、という伝説も生まれた。粽も龍舟も江南地方の伝統的な食べ物や行事であったものが、後漢のころに屈原と結びつけられて生まれた伝説であるらしいが、このような伝説が生まれたのも民衆の中でも屈原が忘れられなかったためであろう。