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衛青

前2世紀末、漢の武帝に仕えた武将で、対匈奴戦で7度にわたり遠征し、漢の勝利に貢献した。

 えいせい。武帝のもとで将軍として活躍、匈奴に対する戦闘を指揮し、前129年以降、前後7回にわたり、長城を越えて遠征し、匈奴を後退させた。その戦闘は、従兄弟の霍去病に引き継がれた。前106年に死去。

Episode コーラスガールから皇后へ

 衛青は、たまたま姉の衛子夫が武帝の後宮でその寵愛を受け、男子を産んで皇后になったため、思わぬ立身出世し、将軍として才能を発揮した。衛青が歴史上の人物となるきっかけとなった、その姉が皇后になったサクセスストーリーはこういうものだった。
 武帝には若い頃に結婚した陳皇后がいた。しかしこの正妻には子供が生まれなかった。宮中では後継ぎが生まれないことに気をもむものが多く、武帝の実の姉平陽公主もその一人だった。平陽公主はあるとき18歳の武帝を自邸に招き、かねて用意の女奴隷たちを皇帝に謁見させた。しかしどれも皇帝の気に入ったようではない。
(引用)やがて酒宴が開かれ、合唱隊が進み出た。皇帝の目は、じっと、一人のコーラス・ガールの上に、そそがれた。コーラス・ガールは、名を衛子夫という。内親王御殿の女中で衛嫗――衛ばあやというものが生んだ私生子である。父が誰であるかも定かでなく、母の姓をそのまま自分の姓として衛子夫というのである。
 ふと天子は、手洗いに立った。ついて行ったのは、衛子夫であり、そこで天子の愛を受けた。漢書の外戚伝には、「軒中にて幸をえたり」としるす。「軒中」とはどこであるか。古い註には、蔽いをした車の中だというが、それはおかしい。(中略。ここで筆者の吉川先生は「軒中」とは「便所」のことだという友人高木正一さんの考証を採用する)
 武帝の腕の中で、はらりととけた女人の髪の毛のつやつやしさは、鏡のようであり、それが一そう皇帝をものぐるおしくしたともいう。何にしても座に帰った武帝は、上きげんでであった。内親王は、コーラス・ガールを、弟に献上することにし、武帝は千斤の黄金を姉に贈って、謝意を表した。……<吉川幸次郎『漢の武帝』1949 岩波新書 p.25>
 この衛子夫の弟が衛青である。ある事件をきっかけに武帝の侍従武官に取り立てられた衛青は、匈奴征伐の総指揮官となり、輝かしい武勲をあげることになる。一介の私生児がそのようなチャンスを得られたのは、姉が皇帝の後宮で愛され、皇后にまでなったということに尽きる。しかし、武帝の愛を一身に受けた衛皇后は、晩年に思いがけない悲劇に遭遇することになる。このあとは、武帝の項(武帝の晩年)をご覧下さい。

衛青の対匈奴戦

 匈奴では、漢の高祖の軍を破った冒頓単于が前174年に死去し、軍臣単于となって全盛期は過ぎていたが、依然としてモンゴル高原に大きな勢力を維持していた。漢の文帝・景帝は懐柔策を採り、軍事行動は控えられていたが、16歳で皇帝となった武帝は、祖父の高祖の復讐として、匈奴征伐の軍を起こすことを強く意識した。
 武帝は前129年、三軍に分けた軍隊に第1回の匈奴討伐を命じた。衛青は車騎将軍に任命され、騎兵1万をひきいて居庸関あたりから打って出た。他の二人の将軍が逃げ帰ったにもかかわらず、衛青だけは匈奴の本拠、龍城に到達し、敵数百を斬って帰った。漢の軍隊が長城を出て戦ったのはこれが最初であり、さらに勝ったことは二重に画期的なことだった。
 第2回は翌年、騎兵3万を率い、山西省の雁門から出て、敵数万を斬った。
 第3回は、さらに翌年、山西の雲中から出て、長城の北側をぐるりと廻り、甘粛の隴西まで行って帰った。これによってオルドス地方を漢の勢力圏に入れ、そこに朔方郡を建てた。ここまでの活躍で凱旋した衛青は長平侯に封じられた。
 第4回は前124年、3万騎を率いて今の包頭の西方、黄河の北岸に進出、匈奴の王族十余人、男女1万5千、畜十万頭をひきつれて凱旋した。武帝は衛青を大将軍の称号を与えた。
 第5回、6回は前123年から2年続けて出兵したが、この時は成果はなかった。そのため衛青の声望はややおちた。それに代わって衛青の甥の18歳の霍去病がこの2回に従軍し、武勇の素質をみせた。急成長した霍去病は前121年、単独で出兵し、大勝利をあげた。
 第7回は前119年、最も大規模な遠征が、大将軍衛青、票騎将軍霍去病の二人が総司令官となって実施された。衛青の軍は単于の軍と遭遇し、追いつめたが捕らえることはできなかった。両者が凱旋すると、捕虜の数の多かった霍去病のみが恩賞にあずかった。こうして、勢いは霍去病の側に傾いたが、霍去病は前117年、わずか24歳で急死してしまった。衛青はその後、前106年まで生き、武帝への忠誠を尽くしたが、兵を率いることはなかった。やがて、後宮でも武帝の寵愛が年老いた衛皇后から離れ、若い李夫人の方に移り、それとともに李一族の李広利に、新たな匈奴との戦いの指揮権が与えられることになる。<吉川幸次郎『同上書』p.66-92>