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霍去病

前2世紀、漢の武帝のもとで匈奴との戦いに活躍した武将。衛青の甥。

 かくきょへい。武帝のもとで将軍として活躍した衛青の甥にあたる。衛青に従い、匈奴に対する戦闘に参加して軍事的才能を発揮した。
 霍去病は、母が武帝の二番目の皇后となった衛子夫や、衛青と同じで、平陽公主に仕える下女であった。つまり、衛青の甥にあたる。衛子夫が平陽公主の計らいで武帝の寵愛を受けることになり、しかも皇太子を生んだことによって、武帝の側近の武官として採用されたのだった。

霍去病の対匈奴戦

 前121年には、驃騎将軍という称号を授けられた20歳の霍去病は、1万騎を率いて、甘粛の黄河上流域に打って出て、その地方の匈奴の属国二国の王を斬り、約九千の首級を得た。さらに西方の匈奴を次々と破ると、この地方の匈奴の鎮台、渾邪王が漢に降伏、霍去病は渾邪王を引き連れて長安に凱旋し、重い恩賞に与った。
 匈奴の王の一人が、その部族とともに降伏して長安に来たのは、漢始まって以来の盛事であった。これによって甘粛省一帯が漢の勢力圏にとり、漢の皇帝がひろく異民族の地も治める天子としての実態が成立したことを意味した。
 前119年には、大将軍衛青とともに、驃騎将軍として二人が総司令官となって最大の対匈奴軍事行動が実施された。ここでも霍去病は衛青を上まわる軍功をあげ、恩賞にあずかった。しかし、その2年後、わずか24歳で急死してしまった。
参考 霍去病の異母弟 霍去病には一人の異母弟、霍光(かくこう)がいた。霍去病のような軍人としての才能より、政治家として優れていたようだ。兄の死後、武帝の側近として仕えて信頼され、武帝晩年の「巫蠱の乱」(武帝の項参照)でも連座を免れて生き延び、武帝没後はその遺詔によって大司馬大将軍となり、幼い昭帝を補佐した。その次の宣帝の擁立を主導し、その皇后に娘を入れて、いわゆる外戚として権勢を極めた。この時期を霍氏政権ともいう。しかしその死(前68年)後は反発が強まり、一族は謀叛の罪で滅ぼされてしまった。

霍去病の墓

 司馬遼太郎が霍去病の墓を訪ねたときの文章がある。
(引用)私は1975年5月、中国の陝西省西安の北方にる霍去病の墓をたずねた。霍去病は、若い将軍だった。漢の武帝に仕え、その寵によって驃騎将軍になった。かれは匈奴と戦うべく漠北に遠征した。ときに陣中で球戯に興じたり、木で鼻をくくったようにひとをあしらったりしたが、勇敢で、かつ苛烈な戦況に動じなかった。かれはそれまで勝ちがたいとされた匈奴と会戦し、武帝が夢かとおもったほどの壊滅的な打撃をあたえた。
 ただ、凱旋後、わずか24歳で病死したために、武帝はその死を惜しみ、自分の陵として予定される茂陵のそばに葬ったのである。
 さらに武帝は、霍去病の功を記念するために、その墓前に石の彫刻をすえさせた。匈奴の貴人が漢の馬に組み伏せられているというもので、いまも残っている。やや古拙でもあり、石が風化してもいるが、じつに力づよい。
 石材はわざわざ漠北からはこばせたもので、色に砂漠がにおっている。見つめていると、古今へのかなしみがひろがるようでもある。石の色をさらにいうと、ややあかばみ、白っぽい。馬に組みふされている匈奴の貴人は雄大な体格をもっており、さらには渋面をつくっている。その顔は、見様によっては西洋人ではないか。<司馬遼太郎『草原の記』1992 新潮文庫 p.49>
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司馬遼太郎
『草原の記』
1995 新潮文庫