外戚
中国の朝廷で皇帝の妃の出身一族のこと。漢末には外戚である王莽が新王朝を建てた。後漢ではしばしば政権に介入し、宦官勢力と抗争する。
皇帝の后である皇后の出身した一族のことを言い、特に皇太子が生まれれば、次期の皇帝の義父の立場となるので、皇后を通じて政治に介入することが多くなり、一族が高官に登用されるなど、宮廷の実権を握った。外戚は正規に登用される官僚とは対立する存在であり、同時に、皇帝の側に仕える宦官とも政治権力を廻って争うことが多かった。
外戚の始まり 霍光政権 霍去病の異母弟の霍光は晩年の武帝の信頼が厚く、次の昭帝の大司馬大将軍となって実権を握り、さらに次の宣帝を擁立して娘を皇后にすることに成功、皇太子が生まれるとその外祖父として隠然たる権力をふるった。これを霍光政権という。これ以降、漢では皇帝の母系である外戚が王朝の政治に関わることが制度化され、大きな発言権を持つに至った。
このような王氏の中で、王鳳の弟王曼が若死にしたため、その子の王莽だけは出世が遅れ、苦労を強いられたが、儒学を学んでその弁舌で注目されるようになり、やはり王氏一族であることから政府高官に登用された。成帝が若死にした後に平帝が11歳で即位すると、王莽は14歳になる自分の娘を強引に皇后に入れ、宮中の実権を握った上で讖緯説のトリックを使って自ら皇帝になる。このように王莽は外戚である王氏一族であったことが権力獲得の前提であった。
漢の外戚
漢代には、宦官と並んで政治の腐敗の原因とされたが、その始まりは、武帝にあるという。武帝の皇后は衛皇后といったが、武帝はその弟の衛青をとりたて、最高の武官職である大将軍に任命した。その後、衛氏一族は大貴族にのし上がり、甥の霍去病も将軍として名をあげた。その後、武帝の寵愛が衛皇后から離れ、李夫人に移ると、李氏一族は衛皇后と衛氏一族を排除しようとして皇帝を呪詛しているとして告発、そのために衛皇后と皇太子が処刑されるという事件(巫蠱の乱)が起こった。外戚の始まり 霍光政権 霍去病の異母弟の霍光は晩年の武帝の信頼が厚く、次の昭帝の大司馬大将軍となって実権を握り、さらに次の宣帝を擁立して娘を皇后にすることに成功、皇太子が生まれるとその外祖父として隠然たる権力をふるった。これを霍光政権という。これ以降、漢では皇帝の母系である外戚が王朝の政治に関わることが制度化され、大きな発言権を持つに至った。
王莽
前漢の劉氏に代わって皇帝となった王莽も、外戚として勢力を伸ばしたものであった。現在の河北省大名県の委西里のひと王禁の娘政君は18歳で漢の皇太子の後宮に入った。その寵愛を受け、男子を産んだ。やがて皇太子が即位し第11代元帝となり、政君の産んだ男子が皇太子(後の成帝)となった。これによって父の王禁は陽平侯に封じられ侯となった。こうして王氏一族の栄華が始まった。やがて政君の産んだ皇太子が即位し成帝となると政君の弟王鳳が大司馬代将軍となって政権をにぎり、8人の兄弟の内、5人が同じ日に侯に任じられ「五侯」といわれたほどであった。この状態には、当時の著名な儒家であった劉向が厳しく非難したが、無視された。このような王氏の中で、王鳳の弟王曼が若死にしたため、その子の王莽だけは出世が遅れ、苦労を強いられたが、儒学を学んでその弁舌で注目されるようになり、やはり王氏一族であることから政府高官に登用された。成帝が若死にした後に平帝が11歳で即位すると、王莽は14歳になる自分の娘を強引に皇后に入れ、宮中の実権を握った上で讖緯説のトリックを使って自ら皇帝になる。このように王莽は外戚である王氏一族であったことが権力獲得の前提であった。
後漢の外戚
次の後漢においても外戚の政治介入は続き、宦官との政争が激しくなる。(引用)外戚の実態は豪族だった。光武帝政権そのものが豪族政権として出発したものであり、豪族は後漢を通じて勢力を拡大した。宦官もまた協力的な豪族と結託した。豪族は儒教を学び、地方の郡県の属官となり中央政界に進出することを欲したが、そのためには有力者との関係を重視した。学業を授けてくれた師に対しては「門生」と称し、官界で出世を助けてくれた先輩官僚には「故吏(こり)」と称して個人的な親密関係を築いた。<山本英史『中国の歴史増補改訂版』2016 河出書房 p.83>