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劉秀/光武帝

中国・王莽の新で赤眉の乱などの農民反乱が起こる中、漢の劉氏の一族として立ち、新滅亡後に乱を平定して25年に即位し、後漢王朝を建設した。光武帝はその諡。

後漢光武帝

後漢・光武帝
中国のトランプより

 漢帝国の皇帝の一族である劉氏に属し、河南の南陽の豪族であった。王莽が漢の帝位を簒奪して建てたのもとで、社会不安が増大し、農民反乱である赤眉の乱が起こると、22年に劉秀も兄の劉演とともに南陽郡の豪族を糾合して挙兵し、各地の豪族と連合して反王莽の兵をすすめた。たびたび敗れて苦難が続いたが、赤眉の集団とも共同して各地の豪族軍の中で次第に優位に立つようになった。しかし23年、はじめに王莽に代わり皇帝(更始帝)の地位についたのは一族の劉玄であり、その時は劉秀はその配下の一将軍の地位に留まった。同年、王莽軍と劉玄のあいだいの戦闘では、劉秀は少数で昆陽城を守り、王莽の大軍を破る活躍をした。王莽はその年の9月、長安に乱入した劉玄の部隊によって殺害された。

赤眉の反乱を鎮定

 劉秀は河北を基盤に徐々に周辺の豪族をしたがえ、さらにその地方で猛威をふるっていた銅馬集団という農民反乱を鎮圧し、いわば豪族集団と農民集団の連合軍を形成していった。長安の更始帝、赤眉集団の王朝とも異なる自立した王朝を樹立しようとした劉秀のもとで、儒生の一人が「劉秀、兵を発して不道を捕え、四夷雲集して龍は野に闘う。四、七の際、火は主と為れ」という符命をもたらした。当時は讖緯思想により天命がおふだで示されると考えられていたが、四、七の際、火は主と為れとは、4×7=28で、その年が高祖劉邦が即位してから228年にあたることに符合し、火徳は漢王朝の徳とされていたので、まさに今こそ漢王朝が復活するという天命が示されたと解釈された。

光武帝の統治

 25年6月、劉秀が漢の帝位について諡号を光武帝といった。10月には都を洛陽に置いた。 劉邦が建てた王朝は、前漢を再興した王朝であるが、区別して後漢と言っている。光武帝は最初の皇帝であり、同時に後漢が最も栄えてた時期の皇帝である(在位25~57年)。
赤眉の乱の鎮圧 赤眉の乱を興した赤眉集団も王朝を建てる動きを見せ、長安で皇帝を宣言した更始帝を攻撃して殺害し、なお活動を続けていた。漢王朝を再興した光武帝は、まず赤眉集団の鎮圧に乗りだし、26年にそれを破り、長城から退去した赤眉軍は、ついに27年1月、光武帝に降伏した。こうして赤眉の乱は終わりを告げた。
全国の統一 しかしまだ全国には、王莽に対して挙兵した地方政権で有力な者がいくつか残っており、群雄割拠という状態であった。光武帝は26年中にまず関中を平定し、赤眉集団以外の農民反乱も各個撃破を図っていった。最も強力な存在は、現在の甘粛省方面にいた隗囂(かいごう)と、四川省方面の公孫述であったが、光武帝は時間をかけて攻略を図り、36年までにようやく軍事的勝利をおさめ、全国統一を達成した。
民生の安定 光武帝の最大の課題は、前漢末から王莽の時代の混乱によって破壊された農村の生産力を回復し、社会を安定させることであった。そのためには農村の農民だけでなく地方豪族層の要求に応えられるような秩序の回復を図らなければならなかった。農民反乱や豪族の反乱を厳しく抑えながら、一方で農村の復興を図る策を次々と実施していった。その前提は、王莽によって定められた空理空論的な制度のすべてを廃止し、より現実に即した前漢の制度を復活させることであった。光武帝は先ず王莽時代に法に触れて奴婢とされた者をことごとく赦免した。その支配地域を広げる度に奴婢解放令を発布し、奴婢を農村に帰した。一方、田租を軽減し、十分の一税を改めて前漢と同じ三十分の一税を復活させた。また、広く農民から軍兵を徴兵することを止めて農業に従事させ、世襲的な皇帝直属軍を設置した。これらの農村復興策の基本となる耕地・戸籍の調査を実施した。また、王莽の時の貨幣制度の混乱を改め、漢の五銖銭を復活させ、通貨制度を安定させた。これらの民生・経済の安定策は、後漢の1~2世紀の一定の安定を実現させた。

周辺世界

 また、光武帝の時代にはベトナムの徴姉妹の反乱があったが、それを平定し、匈奴も南北に分裂して、南匈奴が降伏するなど、周辺世界にも安定をもたらした。倭人の使いが来て光武帝に謁見したのもその晩年の57年のことだった。『後漢書』東夷伝倭人条によれば、57年、倭人の奴国王が光武帝に朝貢し、金印を授けられ、冊封体制に組み込まれた。

光武帝の死とその後

 光武帝は、全国の統一と社会の安定を実現させたことによって33年の在位を続けた。その最後を飾る盛儀として56年、泰山における封禅の儀式を挙行し、57年2月に洛陽の宮殿で63歳で死去した。
 後漢はその後、明帝・章帝・和帝と続き、ほぼ1世紀末までは安定した支配が続いた。光武帝の統治も劉氏に属する一族や、有力な豪族に封土を与える形を通じて行われたので、後漢は豪族の連合政権という性格が強かった。しかしの宮廷内では、次第に外戚宦官が実権を握るようになっていった。