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徴姉妹の反乱

40年にベトナムで、後漢に対して徴(チュン)姉妹の起こした反乱。鎮圧されたが、ベトナム民族意識を高めた。

 漢の武帝の時代に南越が滅ぼされてから、現在の中国南部からベトナム北部にかけて中国王朝のベトナム支配が続いていた。ベトナムには交趾(こうし)・九真・日南(じつなん)の三郡がおかれ、中央から派遣された太守が統治していた。後漢も同じように北部ベトナムを支配したが、光武帝の時の40年、この地方の豪族の一族であった徴姉妹の反乱が起こった。徴姉妹とは徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニ)で、交趾太守の支配に対する越人(ベトナム人)の反乱を指導したと言われている。光武帝は将軍馬援を討伐に派遣し、ようやく鎮圧、姉妹は惨殺された。遠征軍の半分は遠征の途中、南方の風土病で死んだという。徴姉妹は、現在でも独立のシンボルとしてベトナム人の崇拝を受け、祠(ほこら)が祀られている。また、徴姉妹は“ベトナムのジャンヌ=ダルク”とも言われている。

反乱の経緯と結末

(引用)漢の光武帝は、ヴエトナムの反抗を漢の支配の恨幹をゆるがす重大な挑戦とみた。老将馬援(マ・ユアン)を伏波将軍として派遣した。馬援将軍は八〇〇〇人の正規軍と中国南部で徴兵した一万二〇〇〇人の民兵を動員、進撃した。ヴェトナムに入ると、戦略拠点のランバックの高地に布陣した。四二年四月、雨期が到来した。猛薯と湿気のために漢軍の攻撃はとまってしまった。乾期がはじまるのを待っていた。馬援ほ「悪疫が流行り、猛暑は堪えがたい。暑さのためにハイタカ(小さなタカ)が落ちるのを見た」と語ったという。ところが、漢軍と対峠している間に、ヴェトナム側の貉将たちが戦意を失った。だらけ切った中で離反が相次ぎ、チュン姉妹がいどんだ戦闘は大敗を喫した。数千の兵が捕虜となり首を切られた。チュン姉妹は故郷のメリンに撤退したが、この年の末、馬援の侵攻によってついに捕まる。翌四三年一月、二人の首は塩漬けにされて首都の洛陽に送られた。ヴェトナムでの伝承では、二人は戦場で死んだ、馬援に斬られた、馬援に首をはねられた、病死した、雲の中に消えていったなどいろいろな最期が語られている。しかし、もっとも信じられているのは、追いつめられたチュン姉妹は手をたずさえて川に飛び込んだという説である。太守の悪政に端を発したチュン姉妹の反乱はわずか三年間の独立を得ただけで悲劇的結末を告げた。民衆はチュン姉妹の死を悲しみ、祠が建てられた。ハイ・バ・チュンの抵抗はヴェトナム初めての独立であったとして、きわめて高く評価され、独立運動の指導者というイメージがつくられ、悲劇の主人公であると同時に民族の英雄として尊敬されている。<小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書 p.43>