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交趾郡

漢の武帝が前111年にベトナム北部を直轄領として置いた郡。北ベトナムに中国文化が浸透した。

 こうしぐん。前漢武帝が、中国南部からベトナムにかけて存在していた南越を滅ぼして直轄領とした後、前111年に設置した南海9郡のひとつ。中国南部に置かれた南海郡の南、ベトナムの北部、トンキン湾に面した紅河(ホン河)流域にあたり、現在のハノイを中心地としたベトナム人の居住する地域であった。その南、中部ベトナムには日南郡が置かれた。後漢末には交州と言われるようになり、はこの地に安南都護府を置いて支配した。
 この地のベトナム人は中国各王朝の直接支配を受けたため、漢字や儒教などの中国文化の影響を強く受けることとなる。また、北部ベトナムが大越国として独立してからも、中国ではベトナムを交趾と呼んでいたので、一時支配した明の永楽帝もこの地に交趾布政使司を置いた。
交趾郡とコーチシナ  なお、中国の支配の及んだベトナムを交趾(コーシ)と呼んでいたが、16世紀に東南アジアに侵出したポルトガル人がこの地をインドのコーチンと区別するために、コーチシナと呼んだ。19世紀中頃、この地に侵出したフランスは1862年のサイゴン条約で獲得した南ベトナムを「コーチシナ」と呼んだため、現在ではベトナム南部のことをコーチシナといっている。