アメリカの先住民/インディオ
アメリカ大陸への人類の移住は新人の段階に行われ、南北の大陸に独自の文明を形成した。1492年にコロンブスが新大陸に到達して以来、新大陸の先住民に対する一般的呼称としてインディオ(英語圏でインディアン)が定着した。
アメリカ大陸の文明
インディオ(1)
(1)南北アメリカ大陸には最終氷期の時期にユーラシアから人類が陸伝いに移住しており、自然を克服しながら北はカナダ、アフリカから南はフエゴ島まで大陸全域に広がっていった。北米大陸ではおおよそ狩猟採集生活にとどまっていたが、中米のメキシコや南米のペルーには農耕牧畜に支えられた高度な文明を持った国家が形成された。
アメリカ大陸への人類の移住
南北アメリカ大陸では、原人や旧人の化石人骨は発見されておらず、新人(ホモ=サピエンス)の段階で、ユーラシア大陸から移住してきたと考えられている。先住民は1492年にコロンブスが到来した当時には南北アメリカ大陸におよそ9000万人のインディオがいたと推定されており、北はカナダ、アフリカから南はフエゴ島までに広がっており、それぞれ自然環境に応じた多様な文化を形成していた。アラスカやカナダでは魚やアザラシなどの漁が行われ、北米大陸の大平原にはバイソン狩猟を中心とした狩猟文化が発展し、メキシコやペルーには農耕牧畜に支えられた高度な文明を持った国家が形成された。アマゾン川流域では漁業とキャッサバの焼き畑農業を中心とした生活を送っていた。
Episode 南アメリカ先住民はなぜO型が多いか
南北アメリカ大陸の先住民(インディオ)がモンゴロイドであることは、シャベル形切歯(中切歯の裏側がシャベル状にへこんでいる)などでも確かであるが、顔つきなど現代のアジア人とは異なる特徴もある。また南アメリカの先住民は圧倒的にO型血液型が多く、AやB型はごく少ない。これは、彼らが移住していく過程で、大きな自然災害などで急激に人口が減ったときにおこる「ボトルネック効果」で説明されている。一時的に集散サイズが小さくたったときたまたまO型の遺伝子を持った個体が多かったため、後の子孫もほとんどO型になったと説明されている。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス p.268>インディオ(2)
(2)コロンブス以来、スペインによる植民地支配のもとで強制的な労働によって奴隷化され、疫病の伝染もあって人口が急激に減少した。
インディアスの人びと
コロンブスは1492年に到達した島をインディアスの一部と信じたので、そこに住む人びとをインディオ(スペイン語。インディアンが英語。)と呼んだ。「インディアスの人びと」つまり、アジアの人びと、という意味であったが、その地が新大陸であることが判明しても、スペインはこの呼び名に固執し、その地を「インディアス」、その住民を「インディオ」と呼び続けた。そして、スペイン統治下のインディオは、スペインの征服者(コンキスタドール)によってその文明を破壊され、1521年にはコルテスによってアステカ王国は滅亡し、さらに1533年にはピサロによってインカ帝国は滅亡することとなった。またスペイン人入植者のエンコミエンダ制による強制労働や、後にはアシエンダ制大農園やプランテーションでの過酷な労働によって急速に人口が減少した。インディオ人口の減少
スペイン統治下のラテンアメリカにおけるインディオは、スペインのコンキスタドレス(征服者)によってその文明を破壊され、またスペイン人入植者のエンコミエンダ制による強制労働や、後にはアシエンダ制大農園やプランテーションでの過酷な労働によって急速に人口が減少した。またヨーロッパからもたらされた天然痘やペスト、インフルエンザなどの病原菌もインディオの減少の一因となった。概説書によれば、カリブ海域ではコロンブスの到来の頃に約300万人いたインディオは、その後の約30年で10万人までに減ったと推定される。アステカ王国のメキシコでは約2500万人だったのが、征服から100年後の1625年頃にはわずか100万に激減、インカ帝国の地域は約1200万人が約半世紀間に5分の1まで減少した。<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』2001 新評論 p.33>資料 ラス=カサスの報告
スペイン人入植者によるインディオに対するすさまじい酷使と虐待は、スペイン人のラス=カサス神父の著作『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で読むことができる。(引用)スペイン人たちは、創造主によって前述の諸性質を授けられたこれらの従順な羊の群れ(インディオたちを指す)に出会うとすぐ、まるで何日もつづいた飢えのために猛り狂った狼や虎や獅子のようにその中へ突き進んでいった。この(コロンブスがインディオの土地に到達した1492年から)四〇年の間、また、今もなお、スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだこともない聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か二〇〇人しか生き残っていないのである。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀麻呂訳 岩波文庫 p.19-20>ここに記されたエスパニョーラ島とは、現在、西のハイチと東にドミニカがある島のことでカリブ海でキューバ島に次いで大きな島である。ハイチは1804年にフランスから独立しラテンアメリカでの最初の独立国となったが、その頃の民族は奴隷として移入させられたアフリカ系黒人であった。
コロンブスが持ち込んだ疫病
コロンブスが新大陸にもたらしたものに、新大陸では未知であった疫病があった。特に天然痘は免疫のないインディオにたちまちのうちに伝染し、エスパニョーラ島からメキシコの伝わり、コルテスによるアステカ王国の滅亡の大きな要因となった。インディオに対する天然痘の脅威がどのようなものであったか、歴史家マクニールは次のように言っている。(引用)要するに、アメリカ大陸のインディオを見舞った災禍は、今日のわれわれには想像もつかないほどのスケールだった。なにしろ、われわれの生きている現代は、疫病なるものがあまり意味をもたなくなってしまった時代なのである。インディオのコロンブス以前の人口と、底をついた時点での人口の比率が、20対1あるいは25対1とするのは、場所ごとに大きな差はあったろうが、全体としてはほぼ正しい数字と思われる。この冷たい統計的数字の背後には、いつまでも繰り返された、限りなく大きい人間の苦悩が秘められている。社会全体が粉々に砕け、価値が崩壊し、従来の生き方はそのすべての意味が剝ぎ取られたのだ。それを伝える声もかすかに残されている。<マクニール/佐々木昭夫訳『疫病と世界史』下 2007 中公文庫 p.104>
インディオの隷属化
コロンブスは初めてインディオを見たとき、美しいと感じ「容易にキリスト教徒になるだろう」と述べている。同時にインディオを使役することを当然のことと考え「両陛下のご命令があれば、彼ら全員を捕らえてカスティーリャへお送りすることもできれば、また、五十人の者たちで全員を平定して、この島にそのまま捕虜にしておくこともできる」と述べている。第一回航海でイスパニョーラ島に残した残留者全員がインディオに殺害された(原因は残留者にあったようだが)ことから、コロンブスは原住民奴隷化の意図を露骨にした。特に第二回航海で遭遇した小アンティル諸島のカリブ族は食人という野蛮な習慣を持っているので、奴隷として使役することでその習慣をなくし、洗礼を授けることができると考えた。エスパニョーラ島ではスペイン人とインディオの奸計は1494年頃から急速に悪化し、反乱が起こって十人のスペイン人が殺された。その報復としてとれられたインディオのうち550人が4隻の船で1495年2月24日にスペインに送り出され、残ったものはスペイン人の使役者として割り当てられた。奴隷として売られるために船に乗せられたインディオのうち、200人は航海中に死んで海に投棄された。インディオは旧大陸の病気に抵抗力がなく、スペイン人から移された風邪で死んだ。コロンブスはその後も島を平定してインディオに税として金の提出を求め、帰国に際しては30人のインディオを連行した。<増田義郎『新世界のユートピア』1971 中公文庫版 p.100-107>→ インディオの奴隷化については黒人奴隷制以前の新大陸を参照
イサベルの奴隷制反対とエンコミエンダ制
インディオを奴隷にして良いかどうかは本国で議論となった。イザベル女王は敬虔なカトリック教徒として1495年4月16日に神学者、法学者が結論を出すまで奴隷の売却を禁止するという勅令を出した。しかし既にポルトガル経由でアフリカからの黒人奴隷が売買されており、女王も奴隷制度そのものを否定できなかった。女王はインディオ奴隷化には強い反感を持って、奴隷売買禁止を命じたりしたが、結局不徹底であった。しかし女王のコロンブスに対する信頼は次第に揺らぎ、ついにはコロンブスはインディアス統治に問題があるとして捕らえれてしまう。コロンブスに変わってインディアスの総督となったオバンドのもとで、法的は奴隷制度ではないが実質はインディオを奴隷状態に貶めることとなるエンコミエンダ制がとられることとなる。<増田義郎『新世界のユートピア』1971 中公文庫版 p.107-115>インディオ保護策から転換
エンコミエンダ制は実質はさておき、理念はインディオを自由民としてその保護を掲げたものであったが、1504年にイサベル女王が死去し、その後夫のフェルナンド(アラゴン王)がスペインの摂政となると、信仰心の厚い方ではなかったフェルナンドは、インディオ保護策を転換し、専ら経済的効率の観点から、インディオの使役を強化した。またその結果、インディオ人口が減少すると、アフリカからの黒人奴隷を労働力として導入することを認めた(1510年)。<増田義郎『新世界のユートピア』1971 中公文庫版 p.120-122>ラス=カサスの運動と新法
ドメニコ派の宣教師などインディオ擁護派は熱心に活動し、宮廷の内外で運動を展開した。その中で最も熱心に活動したのがラス=カサスであった。彼は、現地と本国を往復して熱心に活動し、カルロス1世の宮廷でも支持者を得て、ついに1543年には「インディアス新法」の制定にこぎ着けた。この新法ではインディオの奴隷化は禁止され、エンコミエンダ制は廃止されることになった。これはラス=カサスの勝利であったが、植民地の入植者は一斉に反発し、現地では反乱が勃発、収拾がつかなくなり、「新法」はインディアスにおいて施行される場合はエンコミエンダ制廃止の条項は除外すると決定された。現地の入植者の経済活動の現実がインディオの強制労働なしには成り立たなくなっているという現実があった。<増田義郎『新世界のユートピア』1971 中公文庫版 p.228-232>ポトシ銀山でのインディオ奴隷労働
1545年、スペインのペルー副王領でポトシ銀山が発見され、銀の採掘が始まった。この銀山でインディオの労働力が必要とされ、ミタ制が導入された。ミタ制はインカ帝国では本来、神殿や道路の建設の時に共同体(村落)の構成員(村民、ミターヨ)を輪番で労働を提供させ、その代わりに食糧や衣料を提供するいわば再分配の制度であったが、スペイン人は強制的、暴力的にに動員し給付は微々たるものしか与えなかった。実体としては奴隷制と変わらなかった。当時は「ミタなくしてポトシなし。ポトシなくしてペルーなし」と言われ、ポトシ産の銀はヨーロッパにもたらされ、価格革命を起こすほどだった。インディオをめぐる大論争
1550年、スペイン国王カルロス1世はバリャドリードでインディオ擁護派のラス=カサスと奴隷化容認派の人文学者セプルベタの二人に論争させた。国王は、インディオに対して信仰を説くより先に戦争によって服従させる行為は正当であるかどうか、と問うた。まずセプルベタは、・インディオは偶像崇拝と自然に反する罪という重い罪を犯している。・インディオの性質は粗野であり、洗練されたスペイン人に奉仕するよう、義務づけられている。・キリスト教を広げるために、まず前もって屈服させておくことは正しい。などの理由で征服活動は正しいと主張した。特に第2点は、アリストテレスが『政治学』の中で、徳のない野蛮な人間は先天的な奴隷として、市民に従属するのは正しいことであると奴隷制度を論じたことが根拠とされた。ルネサンス時代にはキリスト教教会でもアリストテレスは権威のある思想とされていた。それに対して、ラス=カサスは、専ら自己の体験から、インディオはけして劣った野蛮な人間ではないこと、それに対するスペイン人征服者の行為の方が野蛮で残虐であることを述べ、同じ人間であるインディオを奴隷にすることは許されないと主張、アリストテレスはキリスト教徒ではないと反論した。
この論争は51年まで続いたが、決着がつかず、その後も長い論争のテーマとなった。論争の経過、それぞれの議論が劇的に展開される様子は、<ハンケ『アリストテレスとアメリカ・インディアン』1959 佐々木昭夫訳 岩波新書>に詳しく載せられている。同書は、この論争は、その後の黒人奴隷制度の問題、ナチスのユダヤ人迫害、現代の民族問題につながるテーマであると指摘している。
インディオ(3)
(3)19世紀前半、ラテンアメリカ諸国の独立が続いたが、先住民であるインディオに対する差別はなおも続いた。
インディオに対する差別
19世紀にラテンアメリカ諸国が独立を達成してからも、権力を握ったのは現地生まれの白人(クリオーリョ)たちであり、インディオは差別される存在であった。彼らは白人社会とは隔離され、馬に乗ることや武器を持つことを禁止されたほかに、ぶどう酒を飲むことやスペイン人の衣装を身につけることもできなかった。宣教師ラス=カサスなどの運動で、インディオに対する待遇は改善され、法的には人格が認められ、奴隷扱いされることはなくなったが、その生活は解放された黒人よりも貧しいものがあった。彼らは植民地時代のペルーのトゥパク=アマルの反乱のような抵抗を行ったが、独立後もインディオに対する社会的不平等はラテンアメリカの不安定要素の一因となった。白人と現地女性の間に生まれた混血はメスティーソと言われ、インディオと同じく差別される一つの社会階層を構成した。