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関羽

劉備の部将として活躍した『三国志演義』の豪傑。219年、呉との戦いで戦死した。

 三国時代を建国した劉備の盟友。あざなは雲長、河東郡解県(山西省)の出身であったが、故郷を出て放浪するうち涿県で劉備にであった。『三国志演義』では、黄巾の賊の討伐軍に志願した劉備・張飛と酒場であって意気投合、三人は義兄弟となった(桃園の誓い)という設定になっている。その後、張飛とともに蜀の武将として劉備を助け、数々の武勲をたてる。三国志の豪傑で最も有名な人物と言っていいだろう。
 関羽は超人的な武勇で知られるが、『春秋左氏伝』に通暁するという教養も身につけており人望があった。一時、曹操の捕虜となった時、厚遇で臣下に迎えようとしたが、関羽はそれをことわり、曹操が袁紹と戦った際に敵将の首を取って曹操に献じてそのもとを去り、劉備のもとに帰ったという。

呉との戦いで戦死

 208年の赤壁の戦いに敗れた曹操は華北に後退し、呉の周瑜がそれを追って北上した隙に、劉備は長江中流の要地荊州を占領し、呉の間に緊張が生じた。214年から劉備は拠点をつくろうとして益州(四川地方)さらに漢中への進出を図り、それに軍事力を注いだが、関羽は荊州の抑えとして留まり、呉にあたることとなった。
 一方、劉備によって漢中を奪われた曹操は、同じく劉備による荊州支配を警戒する孫権に働きかけ、反劉備の軍事同盟を秘密裏に結成した。219年、荊州を守っていた関羽は、孫権の招きに応じて出向いたところを、謀殺されてしまった。呉が一転して魏と結んだことを、劉備は呉の裏切りと捉え、謀殺された関羽の復讐を図ろうとして呉を攻めたが、敗れてしまった。また、劉備と同じく義兄弟の契りを交わした張飛も呉への出撃にあたり、部下に無理な要求をしたために反発され、暗殺されてしまった。残された劉備は、223年、再び呉を攻めようとしたが、白帝山で陣没、「三国志」の英雄の時代は終わった。

Episode 神となった関羽

 関羽は義気に富み、その死が壮絶であって後世の人々の深い同情をあつめた。宋代頃から軍神として民衆の崇拝を集めるようになり、明代からは福神として神格化されて、関帝廟が作られるようになる。横浜の中華街にある関帝廟も、関羽をまつるもので、同時に商売の神様ともされている。関帝廟には本尊の関羽と、左右に脇侍が祀られている。脇侍は関羽と運命を共にしたその子の関平と部将の周倉(しゅうそう)であるという。また廟の額には「志は春秋にあり」と書かれたものが多いが、これは関羽が単なる武人ではなく、『春秋左氏伝』に通じていたからである。「春秋を学んだからには、その中に書いてある大義名分を正すことを理想とする生涯を、身を粉にして働いたという意味であろう。」<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.58>
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