劉備
三国の蜀の建国者。『三国志演義』の英雄の一人劉備玄徳。関羽、張飛、諸葛孔明など有能な配下を持ち、曹操、孫権と抗争、四川を拠点に蜀を建国した。
三国時代の三国の一角、蜀(蜀漢)を建国した劉備(161~223)は、あざなは玄徳、涿郡琢県(河北省)の出身で、漢王室の劉氏一族の流れをくむという。家はすでに没落し、しかも幼くして父を失ったためムシロやワラジを売って生計の足しにするというありさまだったが、劉備自身は自分は漢王室の血統につながっていると信じ、それを誇りにすると共に漢の再興という目標が彼の原動力であったようだ。
劉備による蜀の統治は実質的に10年ほどであった。次の皇帝は子の劉禅が即位、劉備は死にあたって諸葛孔明に丞相としてその補佐を託したが、劉禅には皇帝としての統治力がなく、諸葛孔明が軍事面だけでなく、内政全般で指導力を発揮した。
諸葛孔明は227年から数回にわたり魏に対する北伐を行ったが、魏の将軍司馬懿(仲達)の持久作戦によって決着をつけることができず、234年に五丈原で陣没する。
一大軍団を組織
184年に黄巾の乱が始まると、乱を鎮定する漢軍に投じ、群雄割拠する中で人望を集め、関羽と張飛と義兄弟となったほか、趙雲など多くの有能な武人を部下に持ち、一大勢力となっていった。207年に諸葛孔明を「三顧の礼」で迎えて軍師としたことは有名。彼ら、劉備を中心とした連中は『三国志演義』の中で大活躍する英雄・豪傑として後に大人気となった。劉備に従って蜀を支えた五人の猛将―関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠を「五虎将軍」という。赤壁の戦い
華北では曹操が漢の献帝を保護下に入れて大義名分を得て優位に立ち、さらに全土へ統一の動きを進めようと南下を開始した。それに対して、諸葛孔明が建てた策は、劉備と江南の孫権を連合させてあたることだった。208年、長江河畔での赤壁の戦いで、孫権は孫権と連合した曹操を破り、その天下統一の野望を挫いた。 赤壁の戦いの後、曹操が華北に後退、呉の周瑜もそれを追って北上している間に、劉備は長江中流の要地荊州(現在の武漢周辺)を占領、孫権にその支配権を認めるよう要求した。孫権は劉備の進出を警戒しながら、関係を保とうと、妹を劉備に嫁がせた。益州・漢中・荊州
劉備は諸葛孔明の建てた「天下三分の計」に基づいて、長江上流の益州(四川地方)に進出を図り、211年に蜀に入り、その地の有力者劉璋に代わって支配権を収め、214年には成都を攻めて攻略した。さらに曹操の治める関中と益州の間にある漢中地方をめぐって対立が続いた。この間、曹操は後漢の献帝から魏公(213年)、さらには魏王(216年)となることを認められ、帝位を狙うことをあからさまにした。217年に漢中をめぐって曹操と劉備の衝突が始まると、曹操は江南の孫権と結ぶことを工作、荊州を劉備に実質支配されている孫権はひそかにそれに応じ、密約が成立した。219年、劉備は漢中を手にいれて漢中王を称したが、そのとき荊州の守備のため居残っていた関羽が、孫権に誘い出されて謀殺されてしまった。蜀を建国
220年、曹操が死去して、その子の曹丕が後漢の献帝の禅譲を受けて皇帝(文帝)として魏王朝を建国すると、劉備は翌221年年、成都で即位して正式に蜀(蜀漢)を建国して帝位(昭烈帝)につき、年号を章武とした。孫権は221年に魏の皇帝から呉国王に封じられ、中国はこれらによって三国時代に突入、長い分裂時代に入った。呉との戦いと劉備の死
221年、魏の皇帝となった劉備は、呉が裏切って関羽を謀殺したことに対する復讐として、呉を攻撃すべく、進撃を開始した。その時、もう一人の義兄弟張飛が、部下に無理な出撃を命じたために反発を受け、暗殺されてしまった。諸葛孔明は呉への出兵に反対したが、劉備は義兄弟の契りを交わした関羽・張飛の恨みをはらすことにこだわり、222年に遠征を強行した。その戦いで呉軍に敗れてしまった劉備は、翌223年にも再征に赴いたが、呉に入る前に国境近くの白帝城で病に臥し、陣没した。劉備による蜀の統治は実質的に10年ほどであった。次の皇帝は子の劉禅が即位、劉備は死にあたって諸葛孔明に丞相としてその補佐を託したが、劉禅には皇帝としての統治力がなく、諸葛孔明が軍事面だけでなく、内政全般で指導力を発揮した。
諸葛孔明は227年から数回にわたり魏に対する北伐を行ったが、魏の将軍司馬懿(仲達)の持久作戦によって決着をつけることができず、234年に五丈原で陣没する。