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永嘉の乱

311年、晋の都洛陽が匈奴の劉聡に攻撃されて陥落した戦乱。晋王朝は長安に移ったが、その衰退は決定的となり、316年に滅亡する。

匈奴による漢の建国

 はじめ西晋の成都王のもとに仕えていた匈奴を率いた族長劉淵は、八王の乱で傭兵として参加、それを機に華北に拠点を設け、304年に独立してを建国した。劉淵の漢は、同じく匈奴系のの石勒なども加わって強大となり、山西地方を中心に河北・河南に広がった。しかし、310年に劉淵は病死し、その事業は子の劉聡が引き継ぐこととなった。

永嘉の乱

 311年、劉聡は各地を攻略しながら、目標の晋の都洛陽に迫った。危機の迫る晋では皇帝の懐帝と東海王越が対立してまとまらず、越は洛陽から出て、途中で石勒の軍に包囲され王公以下十万が殺された。6月、劉聡の軍は総攻撃に移り、弟劉曜らの活躍もあって洛陽を攻め落とした。このとき宮殿・民家は灰燼に帰して、王公以下3万人が殺された。懐帝は捕虜となって平陽に連れ去られ、313年に殺された。これが永嘉の乱と言われる戦乱である。永嘉とは東晋の年号で307~313年にあたる。

その後の晋王朝

 晋ではわずかに司馬氏の一人が長安に逃れて即位して愍帝(びんてい)となったが、さらに316年に劉聡の弟の劉曜に攻撃されて降伏し、晋は完全に滅亡した。しかし、311年をもって事実上晋(西晋)は滅亡していたといえる。その後、司馬氏の王族の一人司馬睿が江南で東晋を建国する。こうして華北には五胡の建国した16の国々が興亡(五胡十六国)し、漢民族は江南に押しやられて、東晋以下の南朝となる。
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