印刷 | 通常画面に戻る |

漢/前趙

匈奴の劉淵が304年に建国。五胡十六国の始まりとなった。311年永嘉の乱で西晋の洛陽を攻略、さらに316年に西晋を滅ぼした。しかし内紛が続き、329年に部将の石勒に帝位を奪われた。それまでを前趙、以後を後趙という。

 かつて漢帝国と対等な勢力をもった匈奴が、武帝以来の圧力を受けて南北に分裂した後、南匈奴は漢に服属し、後漢・三国時代を通じて華北に定住するようになっていた。しかし、かつての騎馬民族として能力は維持されており、その多くは傭兵という形で漢民族諸王朝に仕えていた。彼らの存在がふたたび脚光を浴びることになったのはで起こった八王の乱で、諸王が彼らの武力を利用しようとして、重く用いるようになったからであった。匈奴の劉淵もその一人だった。

匈奴の再登場

 劉淵は南匈奴の単于の後身で、の八王の一人成都王に仕える部将であった劉淵が、八王の乱の混乱に乗じて独立し、304年に平陽(山西省南部)を都にして漢を建国、即位した(高祖)。これが、五胡十六国の始まりであった。五胡といわれた北方民族の一つである匈奴が建てた国であったが、劉淵は漢王室の血筋を受けていることを根拠に、漢王室を再興し、晋王朝を倒すことを標榜したので「漢」を国号とした。劉淵は宮廷に漢王朝風の百官を置いて、その統治を見倣った。
匈奴が建てた「漢」 劉淵の国家は、国号は「漢」というものの、明らかに匈奴を主体とした勢力が中原の長安を押さえて作った国家であり、その登場は中国史の大きな転換を意味している。これ以後、華北には五胡と言われる周辺遊牧民系の民族が割拠し、漢民族の王朝は江南に逃れて東晋を建国する。華北の五胡十六国の始まりとなっただけでなく、三国時代~南北朝時代へと続く魏晋南北朝時代の転換点でもあった。

晋を滅ぼす

 劉淵は310年に病死し、その子劉和が帝位をついたが、劉淵の弟の劉聡が和を殺害して帝位を奪った。劉聡は(西晋)に対する攻勢を強め、311年に晋の都洛陽を攻めて落とし(永嘉の乱)、さらに316年には劉淵の子の劉曜が長安を陥れて、晋を滅ぼした。翌年、晋王室の一人の司馬睿は江南で東晋を建国する。

前趙と後趙

 永嘉の乱で晋から洛陽を奪った劉聡は豪傑であったが、劉和を殺して帝位についた人物だった。因果はめぐり、劉聡の子の劉粲(さん)が立つと大異変が起きた。劉粲は政治を側近の中国人靳凖(きじゅん)にまかせて遊宴にふけり、酒ばかり呑んで暮らしていたので、靳凖は中国人の復讐の機会と考えたのか、クーデタを起こして劉粲を殺し、劉淵と劉聡の墓を暴くなどの乱暴を働いた。長安にいた劉淵の末子劉曜は人の石勒と協力して靳凖の一族を皆殺しにし、自ら318年に皇帝の位につき、翌年、国号を趙とした。しかし間もなく、今度は劉曜と石勒が対立、329年に劉曜は石勒によって倒され、石勒が新たに帝位についた。石勒も国号を趙としたが、ややこしいので、劉曜の国を前趙、石勒のそれを後趙といって区別する。

Episode 酒癖の悪い皇帝たち

 劉曜は勇将であったが酒に溺れ、石勒との決戦の直前まで盃を手からはなさなかったという。油断を見すました石勒が精鋭をひきいて劉曜の中枢を突くと、劉曜は未だ酔いが醒めず、馬から落ちて生け捕りにされ、全軍が総崩れとなった。石勒から国をあげて降参することを勧められた劉曜は従容として殺された。
(引用)劉曜は最後にはみそをつけたが、本来はなかなかの豪傑であった。生まれながらにして眉が白く、目に赤光があり、鬚はまばらであるが長さが5尺もあり、ひろく書を読み、文をつくり、書に巧みであった。武勇にかけては、鉄の厚さ一寸をつらぬくほどの強弓をひいた。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.154>
 劉粲といい、劉曜といい、いずれも酒で失敗したわけだ。宮崎氏は
「劉氏の一族はみな酒癖がわるくて失敗するが、風習が野蛮で体力に自信があるうえに、ほかに高尚なたしなみを知らないためでもあったであろう。」<宮崎市定『同上書』p.152>
と評しているが、非漢民族=野蛮、野蛮=飲酒、という図式はいささか遊牧民及び酒飲みに対する偏見があるのでは?
印 刷
印刷画面へ