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北斉

東魏の皇帝から禅譲を受けた高洋が550年に建てたが、20数年で北周に滅ぼされた。

 550年東魏から帝位の禅譲を受けた高洋は文宣帝を称した。禅譲とは言え、実態は王朝の簒奪であった。王朝名は斉であるが、南朝のと区別するために、北斉という。
 西魏の圧力に耐え、一時は北方の突厥を破るなど盛んであったが、しかし北方系軍人と漢人官僚の対立は続き、さらに西域商人の出身という和士開が実権を握るなど、混乱が収まらず、西魏に代わって登場した北周楊堅(後の隋の文帝)に攻撃され、577年に滅ぼされる。

Episode 皇帝、酒乱の変質者になる。

 北斉の興した高洋(文宣帝)という人は、軍事的には天才であって、その初期には政治に熱心で、人々は久しぶりに明君の出現を歓迎した。しかし、北周の君主の遺伝的な変質者の性格がすぐに現れてきた。評者は「天子にあるまじき種々の醜行をかさねたほか、殺人に対して異常な嗜好を有し、小説にある吸血鬼を地で行く変質者であった」と断じている。
(引用)かれは即位ののちに東魏の廃帝を殺したのをはじめとし、ついで東魏の一族をかたっぱしから殺した。これはせっかく手にいれた帝位を奪回されまいとする用心からである。しかし帝位をうかがうものは前王朝の一族とはかぎらない。かえって自分自身の一族の方が危険だ。そこで今度は一族を殺し出した。ことに人望があって役に立ちそうなふたりの弟を土牢にとじこめて、最後にこれを焼き殺した。……あるいは天子の重荷が、かれの繊細な神経を圧倒して、バランスをくずしてしまったのであろうか。かれは急に酒色にふけり狂暴となって、酒に酔うと血を流さねばすまぬ変態病にとりつかれた。大臣たちはやむをえず、死刑囚を準備させて宮中に養っておき、酒乱の天子の犠牲に供した。そのかわりにこの犠牲は、三ヶ月以内に用がなかったおりには放免してもらえたとおいう。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.229-230>
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宮崎市定
『大唐帝国―中国の中世』
1968初刊 1988中公文庫