鮮卑
北方系遊牧民の五胡の一つ。拓跋氏が有力となり4世紀末に北魏を建国し、439年には華北を統一した。鮮卑は民族としては次第に漢民族に同化した。
せんぴ。五胡の一つ。モンゴル高原で活動していた遊牧民族。モンゴル系とツングース系の混血とか、トルコ系民族などの説がある。はじめ、匈奴に服属していたが、匈奴の分裂後、2世紀頃に部族の統一を果たし、有力となった。その後、モンゴル高原と中国の境界である内モンゴルに進出、いくつかの部族に分裂しながら漢文化を取り入れしだいに発展した。
注意 部と氏 鮮卑は遊牧民であったので、数十家族がテント群を構成していた。中国人はそのようなテント群を“落”とよび、いくつかの落の連合体を“部”とよんでいた。有力な部には慕容部と拓跋部があった<間野英二『内陸アジア』朝日新聞社 地域からの世界史6 p.39>。
現在では一般に、慕容氏、拓跋氏というように“氏”をつけて呼んでいる。彼らはそれぞれ世襲の族長を戴く集団を構成したが、必ずしも血縁集団の意味の氏ではないので注意を要する。そのなかで、慕容氏と拓跋氏が有力となり、特に拓跋氏は北魏以降の国家を作り、その流れは随・唐にまで及び、拓跋国家と総称されることもあるほど、重要な存在となる。鮮卑にはその他、乞伏(きっぷく)氏は秦、禿髪(とくはつ)氏は涼をそれぞれ建国している。
なお、4世紀ごろに黄河上流の青海地方に興った吐谷渾(とよくこん)も鮮卑の慕容氏出身の吐谷渾が、チベット系の羌を従えて建国したもので、南北朝時代から随唐時代まで存続し、中国史に重要な存在となっている。
注意 部と氏 鮮卑は遊牧民であったので、数十家族がテント群を構成していた。中国人はそのようなテント群を“落”とよび、いくつかの落の連合体を“部”とよんでいた。有力な部には慕容部と拓跋部があった<間野英二『内陸アジア』朝日新聞社 地域からの世界史6 p.39>。
現在では一般に、慕容氏、拓跋氏というように“氏”をつけて呼んでいる。彼らはそれぞれ世襲の族長を戴く集団を構成したが、必ずしも血縁集団の意味の氏ではないので注意を要する。そのなかで、慕容氏と拓跋氏が有力となり、特に拓跋氏は北魏以降の国家を作り、その流れは随・唐にまで及び、拓跋国家と総称されることもあるほど、重要な存在となる。鮮卑にはその他、乞伏(きっぷく)氏は秦、禿髪(とくはつ)氏は涼をそれぞれ建国している。
鮮卑・慕容氏
鮮卑は五胡十六国時代には中国北東部から華北に侵入し、いくつかの国を建てた。まず慕容(ぼよう)氏はシラムレン川上流から、3世紀末ごろ、遼河西部(遼西)に進出し、流入した漢人亡命者たちを通じて中国文化を吸収し、農耕技術も受け入れて、中国本土に南下して北中国(遼河方面)に進出していった。337年には燕王となり、352年には河北の鄴(ぎょう)を都とする前燕を建国した。しかし、東晋の劉裕が行った北伐によって、370年に滅ぼされた。そのとき苻堅の前秦に亡命した慕容垂は、苻堅が淝水の戦いで敗れたのを機に自立し、386年に華北で後燕を建てた。その他にも、華北には西燕や南燕、北燕など、慕容氏の建てた国が興亡したが、最終的には北魏によって平定された。なお、4世紀ごろに黄河上流の青海地方に興った吐谷渾(とよくこん)も鮮卑の慕容氏出身の吐谷渾が、チベット系の羌を従えて建国したもので、南北朝時代から随唐時代まで存続し、中国史に重要な存在となっている。
鮮卑・拓跋氏の台頭と北魏
同じ鮮卑であるが、慕容氏よりも遅れて登場したのが拓跋氏である。かれらはその故地である興安嶺東麓のシラムレン流域から、長い時間を経て民族移動を行い、3世紀の中ごろ、現在の内モンゴル地方に拓跋部(氏)を中心とする部族連合国家をつくり、盛楽に本拠をかまえた。その後、部族国家は崩壊と再建を繰り返し、4世紀初め頃、晋の地方長官から、現在の山西省の句注山以北の地域を代王として治めることを認められた。この代国が拓跋国家が華北に進出する第一歩となった。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974 講談社学芸文庫版 p.343-346>北魏
拓跋氏の出身である拓跋珪は、386年に北魏を建国(初代道武帝)、さらに第3代太武帝が439年、華北を統一し五胡十六国時代を終わらせた。さらに西域に進出し、北方の遊牧国家柔然を449年に破ってその南下を防いだ。北魏はその後、孝文帝の時に、都を平城から洛陽に移すなど、積極的な漢化政策を進めたので、民族的にも漢民族に同化し、独自性を消失し、現在はその姿を留めていない。