高宗
唐の第3代皇帝。太宗の子。周辺諸地域を征服し、唐の最大領土を実現した。644年からは皇后の則天武后に政治を任せた。
唐の太宗の子で、第3代の皇帝(在位649~683)。高宗の時代、唐は盛んに対外戦争を展開した。「高宗の在位35年は、内部においては醜怪な内紛がつづいて汚辱にみちた時代であったが、外にむかっては国威を発揚して得意をきわめた不思議な時代であった。」<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.354>
西は遠く中央アジア(後のトルキスタン)の西突厥を徐々に圧迫し、657年には国王を捕らえて滅ぼした。南ではベトナムに進出し、これらによって唐王朝の版図は最大領域に達した。
『貞観政要』に見られるような清廉な国家運営を行い、唐王朝を大帝国に仕立てた太宗も、子育てだけはうまくいかなかったということか(アテネのペリクレス、ローマ皇帝のマルクス=アウレリウス=アントニヌスみたいなことか)。もっとも子供たち三人も皇太子にならなければならないというプレッシャーが無ければ、普通の大人として立派に育ったに違いない。
対外戦争の拡大
東は朝鮮半島で660年に新羅と結んで、百済を滅ぼし、663年には百済を救援に来た大和朝廷軍を白村江の戦いで破った。さらに唐・新羅連合軍は668年に高句麗を滅ぼした。唐は朝鮮半島を直接支配しようとしたが、結局は新羅との戦争で敗れ、676年に朝鮮半島から撤退した。西は遠く中央アジア(後のトルキスタン)の西突厥を徐々に圧迫し、657年には国王を捕らえて滅ぼした。南ではベトナムに進出し、これらによって唐王朝の版図は最大領域に達した。
皇后の則天武后
国内の統治では、651年に永徽律令を制定、また律の官選注釈書である『律疎』と、儒家の根本文献である五経の注釈書『五経正義』を完成させた。しかし、高宗は政治を臣下に任せる傾向が強く、また病弱であったので、664年からは、皇后となった則天武后にその政治の実権をゆだね、武韋の禍という危機を招いた。Episode 真面目な三男坊が皇帝に
太宗には三人の男子がいた。まず長男の承乾が太子(次期皇帝予定者)となったが、今でいうドラ息子で、成長するにつれてわがまま勝手な奇行が目立ってきた。儒学者孔穎達が東宮侍講(教育係)になったが素行が改まらず、結局、謀反の疑いで廃位に追いやられた。太宗が最も期待したのは次男の魏王泰であった。泰は学問もあり臣下の受けも悪くなかったが、一つだけ欠点があった。それは策謀好きな野心家であったことで、太宗は泰を太子にすべきか、一時は自殺を考えるほど思い悩んだ末、重臣長孫無忌の強力な推薦もあって、三男の治を太子に建てることにした。唯一の取り柄と云えば性格がおとなしいというだけの治であったが、大唐帝国三代目の跡目を継いだのはこの高宗であった。やはり心配されたとおり、高宗はやがて皇后の武后(則天武后)のペースにはまり込み、やがて天子としての実権も奪い取られてしまう。こうして太宗の後継者教育は失敗したと言わざるを得ない。<守屋洋『貞観政要』ちくま学芸文庫 p.140>『貞観政要』に見られるような清廉な国家運営を行い、唐王朝を大帝国に仕立てた太宗も、子育てだけはうまくいかなかったということか(アテネのペリクレス、ローマ皇帝のマルクス=アウレリウス=アントニヌスみたいなことか)。もっとも子供たち三人も皇太子にならなければならないというプレッシャーが無ければ、普通の大人として立派に育ったに違いない。