西突厥
583年、突厥が分裂した後、中央アジアに広大な地域を支配。7世紀前半、唐の僧玄奘はインドに向かう途中、西突厥に滞在し国王に仏教を説いた。その後、657年、唐に制圧された。
583年、突厥が分裂した後、モンゴル高原を支配した東突厥に対し、西突厥は中央アジア西方のオアシス地帯であるトルキスタンを支配した(ただし、トルキスタンという地域名が生まれるのは後のことである)。西突厥の領土はかつてのエフタルの領土を合わせ、ササン朝ペルシアとも接し、さらにビザンツ帝国とも交易を行った。
西突厥が統治したのは、現在のキルギス共和国のイッシククル湖付近を中心に、カザフスタンの高原とサマルカンドを中心としたソグディアナ一帯に及ぶ、広大な地域だった。東突厥は、それより東方のモンゴル高原を支配した。
西突厥の都城遺跡 玄奘が訪れた西突厥の都スーイ=アーブ(砕葉城)は、現在のキルギス共和国の首都ビシュケクの東60kmのトクマクからさらに南西6kmのところにあるアク・ベムシ遺跡にその跡が残されている。田園地帯に城壁が残ったが西突厥の都であったことは完全に忘れ去られ、1938~58年にソ連の考古学者が発掘し、中国の文献に出て来る砕葉城の跡とされた。その後も放置されたが、1980年に調査が再開され、日干し煉瓦の住居跡や仏教寺院跡も出土し、近年はここに駐屯した唐の将軍の碑文も発見されている。<長澤和俊監修/吉村貴著『シルクロード歴史地図の歩き方』2001 青春出版社 p.108>
西突厥が統治したのは、現在のキルギス共和国のイッシククル湖付近を中心に、カザフスタンの高原とサマルカンドを中心としたソグディアナ一帯に及ぶ、広大な地域だった。東突厥は、それより東方のモンゴル高原を支配した。
西突厥の繁栄
7世紀前半、唐の玄奘がインドに赴く途中、クチャから北上して天山山脈を越え、西突厥の領域に入った。イッシククル湖畔を西に向かい、今のトクマク付近にあったスーイ=アーブ城で、時の西突厥の統治者トンヤブグウ=カガン(統葉護可汗)の歓待を受けた。『大唐西域記』によると、カガン(可汗)はおびただしい数の兵を従え、200人以上の文官に囲まれていたという。まばゆいばかりの金色の花模様で飾られた天幕で、歓迎の酒宴が催されたが、玄奘には浄食(肉類、酒を除いた食事)が勧められるという気遣いもあった。玄奘の説法を喜んで聞いた可汗は、通過の国への書面、法服、絹を持たせ、カーブルまで通訳をつけて送り出した。当時、サマルカンドの南のソグディアナまで服属させていた西突厥の威勢がうかがえる記録である。<梅村坦『内陸アジア史の展開』世界史リブレット11 1997 山川出版社 p.54西突厥の都城遺跡 玄奘が訪れた西突厥の都スーイ=アーブ(砕葉城)は、現在のキルギス共和国の首都ビシュケクの東60kmのトクマクからさらに南西6kmのところにあるアク・ベムシ遺跡にその跡が残されている。田園地帯に城壁が残ったが西突厥の都であったことは完全に忘れ去られ、1938~58年にソ連の考古学者が発掘し、中国の文献に出て来る砕葉城の跡とされた。その後も放置されたが、1980年に調査が再開され、日干し煉瓦の住居跡や仏教寺院跡も出土し、近年はここに駐屯した唐の将軍の碑文も発見されている。<長澤和俊監修/吉村貴著『シルクロード歴史地図の歩き方』2001 青春出版社 p.108>
西突厥の滅亡
唐の太宗が630年に東突厥を滅ぼしてから、次の高宗の時代になると、西突厥にも圧力を加えるようになった。唐は西突厥から奪ったトゥルファン(高昌国)などに州を置いて直接統治を行い、さらに西域を西進して西突厥に迫った。ところが西突厥にはそのころ内乱が起き、657年に高宗が派遣した唐の将軍蘇定方によって沙鉢羅可汗が捕らえられ、実質的には滅亡した。西突厥の地は、7世紀末になると、その支配下にあったトルコ系部族のキルギスが自立し、代わって勢力を強めることとなる。