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西突厥

583年、突厥が分裂した後、中央アジアに広大な地域を支配。657年、唐に制圧された。

 583年突厥が分裂した後、モンゴル高原を支配した東突厥に対し、西突厥は中央アジア西方のオアシス地帯であるトルキスタンを支配した(ただし、トルキスタンという地域名が生まれるのは後のことである)。西突厥の領土はかつてのエフタルの領土を合わせ、ササン朝ペルシアとも接し、さらにビザンツ帝国とも交易を行った。

西突厥の繁栄

 7世紀前半、唐の玄奘がインドに赴く途中、西突厥の都スーイ=アーブで、時のトンヤブグウ=カガン(統葉護可汗)の歓待を受けたことが『大唐西域記』に描かれている。可汗は金色の花模様で飾られた天幕に、多数の兵を従え、美しい綾の衣装をまとい威厳があったという。

西突厥の滅亡

 唐の太宗が630年に東突厥を滅ぼしてから、次の高宗の時代になると、西突厥にも圧力を加えるようになった。唐は西突厥から奪ったトゥルファン(高昌国)などに州を置いて直接統治を行い、さらに西域を西進して西突厥に迫った。ところが西突厥にはそのころ内乱が起き、657年に高宗が派遣した唐の将軍蘇定方によって沙鉢羅可汗が捕らえられ、実質的には滅亡した。西突厥の地は、7世紀末になると、その支配下にあったトルコ系部族のキルギスが自立し、代わって勢力を強めることとなる。
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