李世民/太宗
唐を建国した李淵の子。父に代わり第2代皇帝太宗として律令体制の整備に努め、7世紀前半の「貞観の治」の安定期を出現させ、周辺諸国に対しても優位にたち東アジア世界に秩序を打ち立てた。
唐太宗・李世民
中国のトランプより
玄武門の変
626年6月4日、長安の宮城北門の玄武門で、当時、秦王であった李世民は妻の兄長孫無忌、将軍尉遅敬徳ら9人を率いて、兄の皇太子建成と弟の斉王元吉を襲撃し、李世民は自ら兄と弟を射殺した。3日後の6月7日には李世民は皇太子となり、2ヶ月後の8月9日には帝位について父の高祖は太上皇帝に祭り上げられてしまった。この李世民の強引な兄弟と父親の排除は、普通、高祖が凡庸で酒色にふける建成を皇太子とし、挙兵に功績のあった李世民をないがしろにし、さらに建成が李世民を除こうと画策ししていることを知った李世民が先手をとったのだ、と説明されている。これは権力闘争に勝った李世民が自らの正当性を主張するために作り上げたことであろう。最近では、仏教と道教の対立が背景にあり、建成が仏教保護の立場であることに危機感を持った道教側が李世民を動かして皇太子建成の排除を図ったという説明もある。<礪波護『隋唐帝国と古代朝鮮』1997 世界の歴史6 中央公論新社 p.191>貞観の治
太宗は即位の翌627年、貞観と改元し、さらに628年には陝西省の一部に残った独立政権を滅ぼし、唐の全国統一を完成させた。内政では貞観律令を制定など律令制の整備に努め、三省六部制を確立させ、『貞観氏族志』を編纂させて氏族の格付けを行って貴族支配を安定させた。その統治は、年号に基づいて貞観の治と言われた(649年まで)。太宗を補佐した者の中には、魏徴や房玄齢など、名臣と言われる人物が多く、かれらは太宗に対して直言し、太宗も好くその進言を聞いたという。太宗と名臣たちの政治に関する問答をまとめた書物が『貞観政要』である。突厥との戦い
トルコ系遊牧国家である突厥は北魏の末期にモンゴル地方で急速台頭し、柔然を倒して強大になった。北魏が分裂し、東魏・西魏の対立、さらに北斉・北周の対立が続いた時期に最も有力となり、華北の諸王朝を従属させる勢いがあった。しかし、隋が華北に登場し、さらに中国を統一して突厥に攻勢をかけたため、突厥は583年に東西に分裂した。東突厥はその後、モンゴル高原で契丹などの北方系民族を従え、隋末の混乱に乗じて再び有力となった。その中で中国北方で隋に反旗を翻して挙兵して唐の建国を宣言した李淵も隋との戦いでは突厥の騎兵の援軍に頼らざるを得なかった。しかし、628年に中国統一を成し遂げた太宗は、突厥に対して攻勢に転じ、630年に東突厥を滅亡に追いこんだ。
天可汗の称号 太宗が突厥第一帝国(東突厥)を滅ぼしたとき、鉄勒(トルコ系民族の総称でもある)の部族である薛延陀(せつえんだ)やウイグルなどが突厥による軍役の徴発などに反発して反乱を起こしており、太宗の突厥討伐に協力し、戦後に「天可汗」の称号を贈った。可汗は柔然以来の北方遊牧民の王の称号であり、唐の太宗が、漢民族の支配者としてではなく、北方遊牧民をふくめた「世界帝国」の皇帝として認められたことを示している。
唐は征服した北方や西域に都護府を置き、羈縻政策による統治を行った。 → 唐と隣接諸国
世界帝国としての唐
641年、吐蕃(チベット)のソンツェン=ガンポに対しては娘の文成公主を嫁がせて和親策をとり、遠くインドのヴァルダナ朝ハルシャ王が使節を派遣すると、唐からは王玄策が派遣された。黄河上流の青海地方にあったチベット系の吐谷渾にたいしても攻勢を強め、東西に分裂させた。東方の朝鮮半島に対しては、隋の煬帝の高句麗遠征の失敗を踏まえ、慎重を期したが、百済の要請を受けて645、647年に高句麗に出兵した。しかし、この時も高句麗軍の激しい抵抗を受け、失敗した。高句麗遠征には失敗したが、百済、新羅とは冊封関係を結んだ。(唐が新羅との連合軍で百済、高句麗を滅ぼしたが、新羅との戦争に破れたのは次の7世紀の後半、高宗の時である。)
日本からは630年、第1回の遣唐使として犬上御田鍬が来朝し、太宗は632年に高表仁を日本に派遣した。この時の遣唐使に従って唐で学んだ人々が645年の大化改新の原動力となった。
この他、周辺諸国からの朝貢を受け入れ、多くの留学生や留学僧が都長安に来た。このように太宗の時代は唐が「世界帝国」として成立した時代である。この時代は玄奘のインドへの旅行などが行われ、東西の文化の交流が進み、その都長安は国際色豊かな文化が繁栄した。