源頼朝
源氏の武将で1180年に鎌倉に自立し、85年に鎌倉幕府を開いた。92年に征夷大将軍となり、日本の最初の武家政権を成立させた。
源頼朝は源氏の嫡男として生まれたが、父義朝が平治の乱(1159年)で平氏などに敗れたため、伊豆に流された。伊豆では地元の武士に支えられて成長し、北条氏の娘政子と結婚して地盤を固め、1180年8月に平家打倒の挙兵に踏み切った。石橋山の戦いで敗れた後に海路房州に逃れ、上総・下総などの武士団を従え、さらに武蔵、相模を転戦しながら勢力を強め、同年10月、ついに鎌倉に入り拠点とした。
神護寺蔵 伝頼朝像
自らは鎌倉に残って東国を経営し、1184年、源義経らに敵対する木曽義仲を討たせ、さらに西国に派遣して平氏追討を命じた。義経に率いられた源氏の武士団は平氏を追い詰め、ついに1185年に壇ノ浦で滅亡させた。しかし、頼朝は義経が後白河法皇と接近したことを嫌い、その追討に踏みきり、奥州藤原氏がそれを匿ったことを理由に自ら討伐にあたり、東国一円に支配を及ぼした。また、同年、義経らを追捕する名目で全土に守護地頭を設置し、実質的な統治権を獲得した。一般にこのことによって鎌倉幕府の成立とされることが多い。
後白河法皇の死後、1192年に征夷大将軍となり、日本最初の武家政権を鎌倉に確立させた。鎌倉には政所・侍所・問注所を置いて御家人や京都から来た公家をその長官に任命し、幕府機構を整備していった。幕府は鎌倉の大倉の地に開き、その西に鶴岡八幡宮、南に父義朝を葬る勝長寿院、北には持仏堂(後の墓所となる法華堂)をもうけ、東には奥州征伐で見た平泉の寺院を参考に永福寺(ようふくじ)をつくり、豪壮な浄土庭園を実現した。鶴岡八幡宮から南に、都市鎌倉の中心軸として若宮大路を造営した。また、95年には上京し、奈良では東大寺大仏再建の供養に列席して、その権威を示した。1999年、相模川の橋の落成に立ち会った帰りに落馬したことがもとで死去した。
源頼朝が日本で最初の武家政権を樹立したころ、朝鮮の高麗でも武臣政権が登場し、崔氏が権力をにぎっている。同じころ中国では東北の金が強大となり、その圧迫を受けながら南宋に朱熹が現れ、大義名分を説いている。ユーラシア西部ではサラーフ=アッディーンが十字軍と戦っている時代であった。
この新説は大きな反響を呼び、現在の教科書類では神護寺像はほとんど姿を消す事態となった。米倉説を補強した黒田日出男氏は東京国立博物館に所蔵される頼朝像とされていた木像も、実は建長寺の北条時頼像と同一人物であるとして、頼朝像であることを否定した。さらに黒田氏は、頼朝の風貌を最も良く伝えるものとして、甲府市にある甲斐善光寺の頼朝像を「発見」した。この像は以前からその存在は知られていたが、正確な由来が判っていなかったところ、黒田氏はその胎内の銘文を解読して、この像は北条政子が夫頼朝像として造らせ、信仰の篤かった信濃の善光寺に奉納した物で、戦国時代に武田信玄によって善光寺の本尊などと共に甲府に持ち去られ、信玄が新たに造った甲斐善光寺に納められたものであり、一度火災に遭った後、修復されたが頭部は鎌倉時代に造られたものであると明らかにした。
甲斐善光寺蔵 頼朝像
この甲斐善光寺の頼朝像はかなり痛んでいるものの、私達のイメージを覆し、鷲鼻で三角の目を持ち、いかにも武将らしい風貌をしている。また甲斐善光寺には源実朝像も蔵されているが、両者はたしかに親子と判るように似通っている。
教科書レベルではまだこの像は頼朝像として紹介されるに至っていないが、最近刊行された頼朝に関連する書物ではどうどうと表紙を飾っている。米倉・黒田説に強く反対している美術史家もおり、神護寺はあくまで自分のところのもを頼朝像と主張している。<米倉迪夫『源頼朝像―沈黙の肖像画』2006 平凡社ライブラリー/黒田日出男『源頼朝の真像』2011 角川選書>
この両像を見比べたいところだが、神護寺の方は常時公開はされていないの対して、甲斐善光寺の方は宝物館で常時展示されているので、こちらの方に分があると思いたくなる。甲斐善光寺は甲府駅からタクシーで10分ほどで行ける。頼朝・実朝像の外に、定朝様式の阿弥陀三尊像や、熊谷直実蔵、小野小町像なども見ることができる。
なお、鎌倉の源氏山公園にある頼朝像は、1980年に頼朝の鎌倉入り800年を記念し、鎌倉観光協会が造った物で、神護寺像・東京博物館蔵を参考に顔を作り、立烏帽子に鎧を着た、ちょっと変な姿になっている。しかし頼朝像を造り替えるという話は聞かない。
神護寺蔵 伝頼朝像
後白河法皇の死後、1192年に征夷大将軍となり、日本最初の武家政権を鎌倉に確立させた。鎌倉には政所・侍所・問注所を置いて御家人や京都から来た公家をその長官に任命し、幕府機構を整備していった。幕府は鎌倉の大倉の地に開き、その西に鶴岡八幡宮、南に父義朝を葬る勝長寿院、北には持仏堂(後の墓所となる法華堂)をもうけ、東には奥州征伐で見た平泉の寺院を参考に永福寺(ようふくじ)をつくり、豪壮な浄土庭園を実現した。鶴岡八幡宮から南に、都市鎌倉の中心軸として若宮大路を造営した。また、95年には上京し、奈良では東大寺大仏再建の供養に列席して、その権威を示した。1999年、相模川の橋の落成に立ち会った帰りに落馬したことがもとで死去した。
源頼朝が日本で最初の武家政権を樹立したころ、朝鮮の高麗でも武臣政権が登場し、崔氏が権力をにぎっている。同じころ中国では東北の金が強大となり、その圧迫を受けながら南宋に朱熹が現れ、大義名分を説いている。ユーラシア西部ではサラーフ=アッディーンが十字軍と戦っている時代であった。
参考 源頼朝像の新説
源頼朝については、京都の神護寺に伝えられた肖像画がそれであると伝承され、長く教科書などにも「伝源頼朝像」として掲載されて定着していたが、1995年に美術史家米倉迪夫氏がそれに対して疑問を呈し、それは鎌倉前期に造られた頼朝の似絵ではなく、鎌倉末期から南北朝時代に活躍した武将足利直義(ただよし、尊氏の弟)であるという大胆な説を発表した。この新説は大きな反響を呼び、現在の教科書類では神護寺像はほとんど姿を消す事態となった。米倉説を補強した黒田日出男氏は東京国立博物館に所蔵される頼朝像とされていた木像も、実は建長寺の北条時頼像と同一人物であるとして、頼朝像であることを否定した。さらに黒田氏は、頼朝の風貌を最も良く伝えるものとして、甲府市にある甲斐善光寺の頼朝像を「発見」した。この像は以前からその存在は知られていたが、正確な由来が判っていなかったところ、黒田氏はその胎内の銘文を解読して、この像は北条政子が夫頼朝像として造らせ、信仰の篤かった信濃の善光寺に奉納した物で、戦国時代に武田信玄によって善光寺の本尊などと共に甲府に持ち去られ、信玄が新たに造った甲斐善光寺に納められたものであり、一度火災に遭った後、修復されたが頭部は鎌倉時代に造られたものであると明らかにした。
甲斐善光寺蔵 頼朝像
教科書レベルではまだこの像は頼朝像として紹介されるに至っていないが、最近刊行された頼朝に関連する書物ではどうどうと表紙を飾っている。米倉・黒田説に強く反対している美術史家もおり、神護寺はあくまで自分のところのもを頼朝像と主張している。<米倉迪夫『源頼朝像―沈黙の肖像画』2006 平凡社ライブラリー/黒田日出男『源頼朝の真像』2011 角川選書>
この両像を見比べたいところだが、神護寺の方は常時公開はされていないの対して、甲斐善光寺の方は宝物館で常時展示されているので、こちらの方に分があると思いたくなる。甲斐善光寺は甲府駅からタクシーで10分ほどで行ける。頼朝・実朝像の外に、定朝様式の阿弥陀三尊像や、熊谷直実蔵、小野小町像なども見ることができる。
なお、鎌倉の源氏山公園にある頼朝像は、1980年に頼朝の鎌倉入り800年を記念し、鎌倉観光協会が造った物で、神護寺像・東京博物館蔵を参考に顔を作り、立烏帽子に鎧を着た、ちょっと変な姿になっている。しかし頼朝像を造り替えるという話は聞かない。